図1 高麗神社
                                図1 高麗神社(埼玉県日高市)

   【 日本書紀にみる古墳時代から持統紀までの渡来人関係記事 】 

今回の章は私のノート的な内容です。無味乾燥であり、お読み飛ばしてください。

 【 古墳時代 】
 古墳時代の始期を箸墓古墳の出現時期と考える学者が多い。問題はその成立時期であるが、260~270年とする意見が主である。古墳時代の終わりは前方後円墳の築造が概ね終了した6世紀末とするようである。

【 日本書紀にみる古墳時代の渡来人関係記事 】

■ 神功皇后紀
5年条に葛城襲津彦が韓半島から人々を連れ還った話がある。紀には「今の桑原・佐糜・高宮・忍海の四邑の漢人(あやひと)の始祖」と記す。4世紀末頃と考えられ、千賀久2020は百済・加耶の工人とみている。この渡来人たちが中心になって、南郷遺跡群にみられる鉄器生産を核とした手工業生産基地が発展した。
 
■ 応神紀 には渡来人の記事が多数ある。
仮に、倭の五王の讃を応神天皇に比定すると、4世紀末から5世紀初期の話になるか。
・7年:高麗人・百済人・任那人・新羅人が渡来。韓人池を作らせる。
      『大和志』では、現在の奈良県田原本町の唐古池に比定。
・14年:百済王が縫衣工女の真毛津を贈ってきた。来目縫衣の始祖となる。
・14年:弓月君が百済から渡来した。自国の120県の人民を率いてきたが、新羅人の妨
     害で皆加羅国に停留しているという。
    (16年木菟宿禰らを加羅に派遣し彼らを連れ帰る)
・15年:百済王が阿直伎を派遣し、良馬2匹を贈る。
    阿直伎は馬飼役をしたが、経典をよく読み阿直伎史(ふびと)の始祖となる。
・16年:王仁(わに)は阿直伎の推薦で百済から招聘さる。多くの典籍を教える。
         千字文と論語を伝えたと古事記にあるが、千字文は当時未成立とされる。
         書首(ふみのおびと、西文氏、河内書氏)の始祖。
・20年:阿知使主(あちのおみ)がその子・都加使主および17県の自分の輩を率いて渡来してきた。
              倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の始祖。
・31年:諸国に造らせた船500隻を武庫の港に集めていたが、同港に停泊した新羅使の船の失火で多くの船が類焼した。新羅王は木工技術者を貢上し謝罪した。猪名部等の始祖となる。雄略紀13年に木工・韋那部真根あり。
(猪名寺・猪名川・猪名野(兵庫)、いなべ市(三重)、伊奈町(愛知)、伊那市(長野))
・37年:阿知使主と都加使主を中国の江南(南朝)に派遣し、縫工女(きぬぬひめ)を求めさせた。4年後阿知使主らは兄媛・弟媛・呉織・穴織の4人の縫工女を連れて帰国する。
兄媛は宗像大神に奉られ、筑紫の御使君の祖となる。他の3人は仁徳天皇に献上された。
後の呉衣縫・蚊屋衣縫の祖となる。(檜隈に居住する東漢氏の管理下に置かれたようだ)
しかし、この話は雄略紀14年条の話と酷似し、本居宣長1798『古事記伝』は雄略時代の事柄とみる。
・39年:百済の直支王の妹である新斉都媛が7人の侍女を率いて渡来。
    (渡来理由は不明だが、倭国人と婚姻して移住したとする説がある)

■ 雄略紀
 雄略が倭の五王の武とすれば、雄略は五世紀中期から後半の天皇になる。
・2年:百済から王族の娘・池津媛が貢進(人質)されたが、宮中に入る前に天皇臣下の石川楯と通じたため、雄略は二人は焼き殺させた。
・2年:雄略天皇は史部(ふみひと)の身狭村主青(むさのすぐりあお)・檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかひはかとこ)等のみを寵愛したとある。両名は後述の東漢氏に属する。比較的新しく百済?からきた漢人の渡来人であり、高市郡に住んでいたのだろう。呉(宋)との外交に従事しているが、倭王武の上表文も彼等が書いたのかもしれない。
・5年:百済の蓋鹵王は倭に人質を出すに当たって、前出の池津媛の例を遺憾に思い、女子を出さず、弟の昆支王(軍君)を送ってきた。(人質は倭の軍事援助に対する保証)
この時蓋鹵王は妊娠中の夫人を昆支王に与えている。産まれた子が後に武寧王になったのだが、その経緯は私のブログ『上田正昭先生と平成天皇ご発言 その3』を参照されたし。
昆支王は人質であって渡来人ではない。『三国史記』には475年の百済復興後に百済に帰り、477年に死亡とあるが、『日本書紀』には来倭後の動静の記述がない。近つ飛鳥付近(飛鳥戸郡)には百済からの渡来人が集住していたので、昆支王を祀る飛鳥戸神社が建てられた。飛鳥戸造は昆支王の末裔ともみられる。
・7年:西漢才伎(かふちのあやのてひと)の歓因知利(かんいんちり)が命を受け、百済から今来の才伎(先端技術者のようなもの)を貰い受けた。彼等は渡来後、東漢直掬の傘下に入り、高市郡の上桃原・下桃原・真神原に居住させた。陶工(須恵器)、馬具製作者、画工、高級織物製作者、通訳たちである。(桃原は石舞台の地、真神原は飛鳥寺の地)
・11年:呉(宋か)の人である貴信が百済経由で渡来してきた。磐余の琴弾壃手屋形麻呂らはその後裔である。
・12年:身狭村主青と檜隈民使博徳を呉(宋)に派遣。
・14年:身狭村主青らが呉国の使者および呉が献上した技術者たちと共に帰国した。
呉の技術者らは檜隈野に住まわせた。それで呉原という(現在の栗原はこの転訛か)。衣縫の兄媛は大三輪神に奉り、弟媛は漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫の祖である。(応神紀37年条の記事はこれの混同らしい)
・15年:応神朝に渡来したとされる秦氏の民は秦造が統括していたが、この年天皇の家臣である臣連に分散して所属させ、自由に使わせた。このことを雄略の寵臣である秦造酒(秦酒公)が憂うのをみて、雄略は秦の民を集め秦酒公に授けた。酒公は喜び、全国に分散している180村の村主を集め、調・庸の絹をうずたかく盛り、朝廷に献上したので「うづまさ」の姓を賜った。(この故事から「太秦」をウズマサと読む) 

■ 仁賢紀
・6年:日鷹吉士が高句麗に派遣され、巧手者(てひと、技術者・職人)を求めた。
工匠の須流枳・奴流枳を連れ帰った。大和国山辺郡額田邑の熟皮高麗はその後裔である。
(熟皮=皮のなめし、革の加工)

■ 武烈紀
・7年:百済王が斯我君(百済王族か?)を派遣してきた。その後、子が生まれて法師君という。これが「倭君(やまとのきみ)」の先祖である。(後に「桓武天皇」で述べる)

■ 継体紀
・1年:継体が皇位を受ける場面で河内馬飼首荒籠が重要な役を果たすが、渡来人であろう。(継体紀23年に河内馬飼首御狩、欽明紀に河内馬飼首押勝・馬飼首歌依がある)
・7年:百済が五経博士を送ってきた。前年の任那四県割譲に対する代償である。五経博士とは儒教学者であるが、識者であり官人の教育など文化向上に益した。五経博士は渡来人ではなく、3年後には交替している。(欽明紀15年にも五経博士交替の記事あり)
・7年:「百済の太子淳陀薨ず」の唐突な記事がある。(後に「桓武天皇」で述べる)  (書紀には「淳陀」はこの1件しか見ない。来倭の記事はない。仮に百済で死亡なら瑣末な記事であり、書紀に掲載するのは不可解である。私は720年書紀成立後に書き加えたのではないかとまで想像する)

■ 欽明紀
・前紀:幼少時夢にみたお告げに従い、山背国深草の秦大津父(秦氏)を重用し、即位後大蔵省に任じた。
・1年:百済人・己知部が帰化した。大和国添上郡山村に置く。山村己知部の先祖である。
・1年:秦人・漢人ら諸蕃からの渡来人を集め、諸国に安置し、戸籍に登録した。
    秦人の戸数は7053戸で、大津父を秦伴造(はたのとものみやつこ)とした。
・14年:蘇我大臣稻目は王辰爾(百済からの渡来人、事務に秀でる)を派遣し、船の税を記録させた。王辰爾はこの功績によって船司に任ぜられ、船史の姓を与えられた。
・15年:百済に軍事援助する見返りに、五経博士・僧・易博士・暦博士・医博士・薬博士・楽人を交替させた。
・17年:蘇我稻目に大和国高市郡身狭(橿原市見瀬町)に韓人大身狭屯倉(百済人)と
    高麗人小身狭屯倉を置かせた。
・23年:新羅使が帰化。河内国更荒郡鸕鵾野邑の新羅人の祖。
・26年:高麗人らが筑紫で帰化し山背国に安置。畝原・奈羅・山村の高麗人の祖。
・30年:膽津(王辰爾の甥)が白猪屯倉の戸籍を完成した功で白猪史の賜姓。
    (百済から渡来して間もない文字技能者のようだ)
・31年:高麗の使人が遭難し越に漂着。山城国に相楽館を建て保護した。(渡来ではない)

■ 敏達紀
・1年:王辰爾 高麗国書を解読したが、西文氏(王仁の後裔)・東文使(東漢氏の一族)がこれを読めなかったので、天皇は彼等を督励した。
・6年:百済王が律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を献じた。
・12年:日羅(倭系百済官僚)の話
・13年:蘇我馬子は二体の仏像を得て、鞍作村主司馬達等(後述)・池辺直氷田(東漢氏の一族)を方々に派遣し、修行者を探させた。播磨国に高麗の恵便という還俗者を得て、馬子は彼を仏法の師とし、達等の娘ら3人を出家させ尼とした(善信尼など)。

■ 用明紀
・2年:用明が疱瘡に罹り臨終のとき、鞍作多須奈(後述)が進み出て「天皇のために出家し、仏像と寺を造り奉ります」と奏上した。南淵の坂田寺と丈六の木仏がそれである。

■ 崇峻紀
・1年:法興寺の建立のため、百済から仏舎利・僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工など
十数人を送ってきた。百済使の帰国時、百済で仏法を学ぶため善信尼らを同行させた。
真神原の樹葉(このは、飛鳥衣縫造の祖、cf雄略紀7年および14年)の家を撤去し、ここに法興寺を起工した。

【 日本書紀にみる飛鳥時代(狭義)の渡来人関係記事 】

(註記)「帰化」という言葉は議論の多い語である。
 「帰化」には「君主の徳に感化されて、そのもとに服して従うこと」の意味があり、華夷思想や王化思想と結びつくので使用したくない言葉ではある。しかし、律令国家成立以前でも飛鳥時代のように王権が確立している環境に自分の意志でその国の一員となることを承知して渡来してきたものを、弥生時代や古墳時代初期のように「渡来」と表現するのに抵抗を感じる。
 適当な言葉がないので、そのようなcaseでは「帰化」を用いた。

■ 推古紀  593~
・1年:厩戸王は仏教を高麗の僧・慧慈に習い、儒教を博士・覚哿に学ぶ。
・3年:百済僧・慧聡が来倭。慧慈と慧聡の両僧は仏法を広め、三宝の棟梁となる。
・10年:百済僧・観勒が来倭し、暦・天文地理・遁甲方術の書を献ず。書生数人を選び、観勒に習わせた(古墳時代に渡来した氏族の子弟が多い。漢字の素養の関係か) 
また 高句麗僧・僧隆、雲聡が帰化した。
・11年:秦河勝は厩戸王の保有する仏像を貰い受け、蜂岡寺(広隆寺)を造った。
・13年:鞍作鳥に命じ、丈六の仏像を造らせる。
・16年:隋使・裴世清が帰国時、遣隋使・小野妹子らと共に、留学生ら8名を同行させた。(第三回遣隋使、608年)
・16年:新羅人が多数帰化した。
・17年:百済が呉国に遣わした船が暴風により肥後に漂着した。朝廷は百済に送還したが、乗員86名中の11人の修行者が帰化を希望し、許可して元興寺に住まわせた。
・18年:高句麗王が僧・曇徴法定を貢上。曇徴は五経に通じ、絵具、紙、墨を作り、水車を動力とする臼も造った。
・20年:この年、百済からの帰化人が多かった、その中の芝耆摩呂は御所に須弥山と中国風の橋を築き、路子工とよばれた。味摩之は中国で学んだ伎楽の舞が出来るというので桜井に住まわせ、集めた少年たちに伎楽の舞を習わせた。その中の真野首弟子、新漢済文はその舞を後に伝えた。大市首、辟田首の祖である。
・24年:屋久島人が相前後して渡来。計30人を朴井(和泉?)に安置するも、帰郷を待たず、皆死んでしまった。
・31年:隋に留学していた僧・恵斉、恵光と薬師・恵日、福因らが新羅使に同行して帰国した。隋唐交替を経験してきた恵日らは、「唐に滞在している留学生たちは、もう既に皆、学びて業を成し遂げています。 召還 すべきでしょう。大唐国は法式が完備した立派な国(珍国)です。常に往来して交わりを保つのがよいでしょう」と上奏した。
・33年:高句麗王が僧・恵灌を貢上す。

■ 舒明紀 629~
・1年:田部連らを屋久島に派遣した。翌2年に帰還した。
・3年:屋久人が帰化した。
・3年:百済の義慈王が王子・豊璋を人質として送ってきた。
・4年:第一次遣唐使の送使として高表仁が来倭。この船で隋・唐に留学していた学問僧・霊雲、僧旻、勝鳥養が帰国。
・11年:百済大宮・百済大寺の建設に当り、書直縣(東漢氏の一族)を棟梁とした。
・12年:隋・唐に留学していた南淵請安・高向玄理が帰国

■ 皇極紀  642~ 
・1年:百済の王子・翹岐が放逐され来倭。(翹岐=豊璋 説あり)
・3年:中大兄皇子と中臣鎌足が南淵請安の塾に通う。
・3年:東国の富士川辺りで、大生部多という男が蚕に似た虫を常世の神として祭る新興宗教を広めた。これに惑わされ財産を失う人々が続出した。葛野の秦河勝はこれを憎み大生部多を打ち懲らしめた。

■ 孝徳紀  645~     
・1年:朴市秦田来津らが古人大兄皇子の叛に関与するも処罰なし。        

■ 斉明紀 655~
・6年:百済の福信が唐の捕虜106人を献じた。近江国の墾田に配置したが、後に美濃国の不破・片県の2郡に移す。
『釈日本紀』が引用した『調連淡海日記』は壬申の乱で天武に随従した舎人・調淡海の回顧録であるが、その中に天武が近江軍との戦いの参考のため唐人に唐軍の戦略を質問した場面がある。その唐人が福信が贈ってきた捕虜だとする説があって面白い。
私が気になるのは、白村江の敗戦で唐の捕虜は当然返還すべきだが、書紀には記載がない。

■ 天智紀 662~ 
・即位前紀(661):9月豊璋に織冠を授け、狭井連檳榔・朴市秦田来津が5千の軍を率い、百済に護送した(第一次派遣軍)。この後、秦田来津は白村江で憤死する。
・2年:(白村江敗戦)9月倭軍引揚げの際、百済の高官から人民までのかなりの人が同乗渡来。
・3年:倭に滞在していた百済王子・善光を難波に置く。
   (旧国王王子の立場で、貴族層を含む亡命百済人たちの統率と秩序かを図るため)
・4年:百済人民400余人を近江国神前郡に置き、田を給付した。
・5年:高句麗は唐・新羅に攻められ、この年倭に2度援軍要請の使節団を派遣した。
    (その一員に「二位玄武若光」の記載があるが、後の武蔵国高麗郡長官若光との
     異同は不明)
    百済人民2千余人を東国に移配。
    多くの亡命百済人は天智2年(白村江)より3年間、難波に安置されて官から食
    料を支給されていた。
・8年:佐平余自信・佐平鬼室集斯ら百済人男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居させる。
・10年:帰化した百済貴族官人、佐平余自信以下多数に位階を与えられた。

■ 天武紀 672~
・4年:筑紫から貢上された唐人30人を遠江国に安置。(経緯詳細不明)
・6年:天武天皇は東漢氏に対し「七つの不可を犯した」と厳重注意の勅を出した。
        しかし、11年には東漢氏に「連(むらじ)」の姓(かばね)を与えた。
        2年後の天武13年制定「八色の姓」で「忌寸(いみき)」に変えられた。
        (直→連→忌寸)
・13年:帰化した百済の僧尼俗の男女23人を武蔵国に安置。

■ 持統紀 687~
・前紀:筑紫大宰が高麗・百済・新羅の人民62人を献上
・1年:投化した高麗人56人常陸国に安置。投化した新羅人14人を下毛野国に安置、
    新羅人22人武蔵国に安置。
・2年:百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。
・3年:帰化した新羅人を下毛野国に安置。
・4年:新羅の僧ら50人が帰化してきた。そのうち韓奈末許万ら12人を武蔵国に安置。
        百済の男女21人が帰化。
        帰化した新羅人らを下毛野国に安置。(上記50人と同じ人々であるかは不明)
・7年:百済王善光に正広参(諸臣48階の第6位)を叙位。

図2
     図2 東国

【 斉明朝から持統朝までの戦乱に由来する渡来人 】

■ 百済人
天智2年9月:白村江敗戦で周留城に立て籠もっていた百済人が多数難民として来倭した。
天智3年:百済王善光らを難波に置いたが、次々と来倭する百済人は一旦難波に集め、官から食料を支給されていた。
天智4年:百済人民4百余人を近江国神前郡に置き、田を給付した。
天智5年:百済人民2千余人を東国へ移配(入植させた)。
 (『日本後記』799年の記事に、「甲斐国居住の百済人190人が姓を変えて欲しいと要望」
  とある。恐らく、上記2千人のうち数十が甲斐に移配されたのだろう
天智8年:佐平余自信・佐平鬼室集斯ら百済人男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居させる。
天武13年:百済の僧・尼・俗の男女23人が化来、武蔵国に安置
持統前紀:筑紫に渡来していた高麗・百済・新羅の人民62人を難波に移す
持統2年:百済の敬須徳那利を甲斐国に移す
持統4年:百済男女21人帰化

■ 高句麗人(高句麗は天智7年(668年)滅亡した)
持統前紀:筑紫に渡来していた高麗・百済・新羅の人民62人を難波に移す
持統1年:帰化した高句麗人56人を常陸国に安置

■ 新羅人(戦乱を避けたとか、国内の政治事情によるのだろうか)
持統前紀:筑紫に渡来していた高麗・百済・新羅の人民62人を難波に移す
持統1年:帰化した僧・尼・百姓の男女22人を武蔵国に安置
持統3年:帰化した新羅人14人を下毛野国に安置
持統4年:新羅の僧・官人ほか50人が帰化した。
          新羅の官人・許万ら12人を武蔵国に安置
          帰化した新羅人らを下毛野国に安置(新たな帰化人か、先の50人かは不明)

■ 唐人 (白村江以前に、百済から捕虜として倭に送ってきたもの)
斉明紀6年(660)10月条に、「百済の鬼室福信が唐の捕虜100余人を献じてきた。今、美濃国の不破・片県の2郡にいる唐人である」と記す。
更に斉明紀の最後に、次の注釈がある。「『日本世記』には斉明7年に福信が捕虜にした唐人が筑紫に着いたとあり、また別の本には斉明7年に福信が献じた唐人捕虜106人を近江国の墾田に配置したという。しかし、斉明6年に既に福信が唐人捕虜を献じたと云う。これらのことは書き留めておくが、いずれかに決めよ」と。
 おそらく、唐人捕虜の献上は1回であり、錯綜しているのだろう。
私が興味を持つのは2点である。
①唐人捕虜であるなら、白村江の敗戦後に3度(あるいは4度)来倭した郭務悰などに返還すべきである。書紀に全く記載がないのはなぜか?
②壬申の乱の際、大海人(天武)は美濃国不破の野上に不破宮を置いた。戦前の大本営に当たる。ここで近江軍に対する作戦を練った。この時の様子を舎人が乱後に日記に書いた。
この舎人は吉野宮から大海人に従った二十数人の一人で、調淡海という。日記は散逸して現存しないが、一部が『釈日本紀』に引用された。それによると、大海人は唐国が数々の戦争を経験しているので、唐人は戦術を熟知しているだろうとして、不破に住んでいる唐人を召して下問した、というのである。もしその唐人が斉明6年の捕虜とすれば、残留していた証拠になる。
(天武紀4年の筑紫から貢上された唐人30人を遠江国に安置については詳細不明)

■ 摂津国百済郡      
 天智3年(664年)善光の難波移住の周囲に百済難民を集めて成立した郡であるが、郡域は明らかでない。現在の大阪市生野区・天王寺区・東住吉区・阿倍野区にわたる地域と推定される。
また「百済郡」の名称そのものの成立時期も不明だが、霊亀元年(715年)と推定される長屋王木簡に「「百済郡南里車長百済部若末呂・・」とあるのが初見資料である。

■ 武蔵国高麗郡
 高麗郡は霊亀2年(716)に建郡された。『続日本紀』霊亀2年5月16日条に『駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人1799人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く」とある。既存の入間郡を割いて高麗郡を建てたようだ。地理的には、ほぼ現在の埼玉県日高市・飯能市に当たる。この地には石器時代から縄文時代の遺跡はあるが、716年頃には稲作に適しない無人の地域で、上記移住者が開拓を始めた。
前記の高句麗人の項には常陸国しか記載がない。それが東国七国に散らばっていたということは、滅亡以前からの渡来によるのだろうか。
 朝廷は当時中央集権国家を目指し、地方行政機構の整備に注力していたので、そのモデルとしたのが建郡の大きな理由と考えられている。
リーダーとして、高麗若光(こまのじゃっこう)を当てた。若光は高句麗国の最後の王である宝蔵王の子ともされる。天智紀5年(666)に高句麗から援軍要請のために派遣された副使の中に玄武若光がいるが、同一人かは不明。『続日本紀』によると大宝3年(703)に従五位下高麗若光は「王」(こにきし)の姓(かばね)を与えられている。百済王氏に対応している。
 現在の日高市に高麗神社(図1)がある。主祭神は高麗王若光で、若光死没の8世紀創建とみられる。
  
■ 武蔵国新羅郡
 高麗郡と同様『続日本紀』天平宝字2年(758年)条にに次の記載がある。
「帰化の新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移す。是に於いて、始めて新羅郡を置く」
当時の郡域は現在の埼玉県和光市・朝霞市・志木市・新座市あたりとみられ、閑地とあるからには、あまり利用されていない地域だったのだろう。
上記の総計は74人だが、前記のように持統1年と4年に武蔵国に安置したものも加わったのかもしれない。なお、2年後の『続日本紀』天平宝字4年(760年)条に、「帰化した新羅人131人を武蔵国に置く」とある。

図3 多胡碑 Wikipediaより
  図3 多胡碑 (Wikipediaより)

■ 上野国(かみつけのくに)の問題
 上記で興味深いのは、東国移住記事の中に上野国を見ないことである。これはこの地が既に五世紀頃からの渡来人移住によって開発され、閑地が少なかったからであろう。
なお、711年(和銅4年)の多胡郡建郡は古くからの渡来人の再編成を示しているかもしれない(亀田修一2020)。
建郡を記念して建てられた石碑「多胡碑」(図3)は有名であり、碑文内容を要約すると「和銅4年、上野国の3郡から300戸を分離し、新郡「多胡郡」を建郡し、羊(人名)に支配を任せる」。羊は新羅人とされる。

■ 坂東武士のルーツ 
ここでは詳述しないが、東国に移配された渡来人たちは新技術によって閑地を開拓し、豊になっていった。馬の飼育・乗馬・騎射に慣れた渡来人にとって、武士への転換は容易だったと思われる。鈴木治氏『白村江』1972は「中世における武士の発生は帰化人子孫」と述べている。

図1
                                       図1  中国江南

                     【 弥生時代の渡来人 】

 まず、このシリーズの冒頭に記したことを再掲しておく。

【私のスタンス】
 私自身は平均的日本人であると思っている。両親は共に高知県出身である。
 私は天皇制を否定しない。現在の日本には必要であると考えている。
 世界の平和や核兵器廃絶は世界が統一されない限り実現しないと認識している。
 米国が自国の利益を考慮して制定し、1946年に公布した現行の日本国憲法は、
    現状に対応するよう日本国民によって早急に見直さなければならないと考えている。
 隣国である韓国とは尹大統領が述べるように未来志向で関係構築が進むことを望む。

【本シリーズでの渡来人】
 人類の起源はアフリカとされている。日本列島内で人類が発生した証拠はない。
とすれば、日本人すべての祖先は外地からやってきた渡来人になる。
ヤポネシア(日本列島)には約11万年以上前に最初のヒトが渡来し、その後何度か大きな波があるものの、現在まで渡来してくる人は絶えない。
 そこで、私が本シリーズで取り上げる渡来人は便宜上、弥生時代以降から飛鳥時代までに外地から日本列島に渡来し、一定期間以上居住した人を指すことにする。いわゆる帰化人も含める。
 人類学では、弥生時代以降にユーラシア大陸から渡来した人々(渡来系弥生人など)の総称として用いられることが多い。
しかし歴史用語(特に文献史学)としては、3世紀から7世紀頃に朝鮮半島などから日本に移住した人々(移民)を指すことが多い(『渡来人Wikipedia』)。
そこで、歴史学でいう「渡来人」の意味をきっちり認識しておかなくてはならない。

【 渡来の四つの波 】上田正昭1965年(弥生時代も含めている)
 上田正昭氏『帰化人』1965年によれば、弥生時代開始前後から七世紀の段階について渡来の波が繰り返しあって、そのピークを画期とする下記の四段階を設定している。
1.弥生時代のはじまる前後のころ   
   (亀田2020:弥生の終わりに小さなピークがある。(筆者:タウポ火山の影響か))
2.五世紀の前後(応神・仁徳朝)
3.五世紀の後半から六世紀の前半(雄略-欽明朝)
4.七世紀なかばのころ。(特に天智朝前後)

上田先生は『私の日本古代史(下)』2012,新潮選書で、「(上記の見解は)いまでも訂正する必要はないと考えている」と述べられている。

【 弥生時代の渡来人 】
 古代の中国では「倭人」を中国の江南、韓半島の南部(弁韓の南、伽耶地方)、九州北部などに住む南方系異民族で、刺青が特徴のように認識していたと私は考えている。
(参考:本シリーズ(4)
更に、この倭人は斎藤成也氏の提唱する「海の民」とも重なるのではないかと思う。
図2
    図2 対馬海流

 東シナ海には北上する黒潮(最大流速7km/hほど)があり、本体はトカラ海峡から太平洋に入る。その流量の4%くらいが九州西方沖で分離し、中国沿岸水と混ざり対馬海峡から日本海に入る(対馬海流)。仮に江南地方から対馬海流に乗って流れてきた舟が、左岸の韓半島に着くか、右岸の北九州に着くかはその時の波次第に過ぎない。(鈴木治1972)。つまり漂着当時においては、加耶地方と北九州沿岸の人々は同種・同質であっただろう。彼らの生業は漁𢭐・製塩・交易が主体であったと考えられる。
(自説では、江南地方の人々の耳垂型は南方的で、分離型であったと考える。テレビで釜山のニュースを見ると、分離型がかなり多いように思う。密着型は高句麗・北部中国系か)
勿論、江南地方からの渡来は一時期に限定されたものではなく、少数であったとしても断続的に新しい人々の流入は続いていたであろう。
 韓半島の方は地理的に中国文化の影響を受けやすく、藤尾慎一郎氏2019によると、韓半島では日本列島の縄文時代前期(三内丸山遺跡の時代)と同時代にアワやキビなどの穀物を栽培しており、本格的な農耕生活は日本より500年早いらしい。やがて水田稲作が始まる(藤尾氏は紀元前11世紀とする)。この頃には韓半島南部に住みついた倭人と日本列島に住む倭人には文化的にかなりの差が生じていたと思われる。

 弥生時代の定義はいろいろあるが、ここでは設楽博己氏2014の「農耕文化複合が形成されてから前方後円墳が出現するまでの時代」とする。
なお、斎藤成也氏2017の「海の民」由来の人々も渡来人に含める。

 水田稲作の発展に伴って増加する人口を支えるために農地を拡大する必要が生じる。可耕地や灌漑用水の水利権の確保、余剰生産物の収奪などを原因とする争いや戦争が発生してくる。このような社会変化によって、集落は地域共同体、小国家へと発展してゆく。
 戦争に敗れたため、戦乱から逃避するため、自然災害のため、あるいは積極的に新天地開拓のため、様々な理由で韓半島から日本列島(主に北部九州)への渡来があったものと思われる。
 古代、韓半島から日本列島への渡来ルートとしては、対馬海峡-対馬-壱岐-北九州が最も一般的であっただろうが、対馬-沖ノ島-宗像ルートも使用されただろう。北九州・穴門(長門)から畿内方面へは瀬戸内海ルートが普通である。一方、穴門から山陰・北陸へ日本海沿岸伝いに東進する日本海沿岸ルート(仮称)も存在した。ツヌガアラシトはこのルートで敦賀へ渡来したのだろう。仲哀紀2年条に神功皇后がこの逆コースで敦賀から穴門の豊浦へ行く話がある。

 奴国を例にとって考えると、現在の博多付近には対馬海峡周辺から海人集団の一部が渡来して住みついた。阿曇氏の祖先である。一方韓半島から水田稲作文化をもった一団がこの地に渡来し、板付遺跡の地などに水田農業を営み始め、漸次拡大していった。この渡来は数次にわたったかもしれない。これら漁労集団と農耕集団が争った証拠やどちらが先住かについての証拠はないが、結局農耕集団の首長がこの地域全体を治めるに至った。
『後漢書』東夷伝倭条に「建武中元二年(57年),倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。」と記されているように、西暦57年には中国へ朝貢し、金印を授与されるほどの国になっていた。(参考:本シリーズ(4)) 
奴国王の墓とされる須玖岡本遺跡の巨石下甕棺墓の副葬品は銅剣・銅矛・銅戈・多数の銅鏡・勾玉・管玉のような豪華なものであった。
 『後漢書』東夷伝倭条には、上記奴国の金印授与の記事に続いて、「安帝永初元年(107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」がある。記事中の「倭國王」の解釈や、「帥升」について多くの議論がある。
(帥升を寺沢薫氏2017は伊都国王、鳥越憲三郎氏は奴国王とみる)
それはともかく、伊都国の平原遺跡1号墓が注目される。(参考:本シリーズ(6)
この1号墓は方形周溝墓であり、日本最大の鏡、鉄製大刀、勾玉、などが出土し、発掘調査した原田大六氏は被葬者を玉依姫命(神武天皇の母)と考えた。柳田康雄氏は卑弥呼の先代にあたる巫女の墓とみる。

【 天皇の祖先も渡来人 】 
 奴国・伊都国の王墓の墓制および豪華な威信財をみると、両国の支配者は韓半島からの渡来人と考えざるを得ない。魏志倭人伝の記す三十国の首長も縄文人とは考えがたい。

 神武天皇はどうか。実在したかどうかはさておき、『古事記』をみてみよう。
『古事記』の天孫降臨の条に、下記がある。神武の曾祖父・瓊瓊杵尊の話である。
 ①「天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」
 ②「此地者、向韓國、眞來通笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地」   
(読点(、)は『日本古典文学大系1 古事記 祝詞』1958、岩波書店による)

図3高千穂町の槵觸山(正面)
      図3 高千穂町の槵觸山(正面の丘)

 天照大神の孫(天孫)であるニニギ(神武の曾祖父)がクジフル峯に降臨したということであるが、その降臨地は不明であり、多くの説があるが決定的なものはない。日向や高千穗は普通名詞でもあり、宮崎県(日向国)の高千穗とするのは学問的に確定していない。
(宮崎県高千穂町にある標高420mほどの山を槵觸山としている(図3)。更に高千穂町は観光資源として、天安河原・天真名井・天岩戸神社・高千穂神社まで利用している)

「韓国に向かう」は重要であり、常識的には北部九州沿岸地域と思われる。
(韓半島が故郷という意味がある:松本清張1982)
また平原遺跡1号墓で紹介した「日向峠」も気になるところである。 

 ①は(筑紫の日向の高千穂のクジフルタケに天降(あまくだり)した)である。
当時はまだ日向国(現在の宮崎県)は成立していない。『古事記』上巻の「国生み」の条に、「筑紫島は身一つにして面四つ有り。(筑紫国・豊国・肥国・熊曾国)」とあり、日向国はない。
また古田武彦氏(『盗まれた神話』1975)は、①を(筑紫国の日向の高千穂のクシフル峯)と解すべきとする。氏の論には首肯し難いところが多いが、この読み方は同意できる。
つまり、「筑紫国の日向というところにある高い山々であるクシフル山」である。
 由比章祐1913『怡土志摩郡地理全誌』は東大なども所蔵する書であるが、この本に「慶長年間、黒田長政(筑前国福岡藩主)の書状(田中家蔵)が紹介され、その中に「五郎丸の内、日向山に新村押立・・」という文が記載されている。要するに現在の糸島市に慶長年間、日向山なる山があったことの文献証拠になる。由比氏はクシフルについても触れているが省略する。

 ②の武田祐吉による訳は「この処は海外に向かって、カササの御﨑に行き通って、朝日の照り輝く国、夕日の輝く国である。此処こそはたいへん吉い処である」となっている。
別人の訳でも、「カササの御﨑に行き通って」に類似した訳が多い。

図4 訂正古訓古事記
          図4 訂正古訓古事記

『古事記』については、『日本古典文学大系1 古事記 祝詞』1958、岩波書店を参考にされる方が多いと思われる。この書は享和三年発行の『訂正古訓古事記』を底本にしているが、底本にない読点(、)が入っている(図4:岩波本の底本である『訂正古訓古事記』)。
この読点は校注者が自分の解釈(読み方)で付加したものである。
武田祐吉氏はこの書の二人の校注者の一人であり、初刷発行年の1958年心臓衰弱で亡くなられている。刊行のご苦労に感謝の念を禁じえない。

図5 高祖山Wikipedia2023-04-16 (2)
      図5 筑紫の高祖山

 ②について古田武彦氏の考察があり、要約する。②は
  向韓國眞來通  (北なる)韓国に向かって大道が通り抜け、
  笠紗之御前而  (南なる)カササの地(御笠川流域)の前面に当たる。そして、
  朝日之直刺國 (東から)朝日の直に照りつける国、
  夕日之日照國  (西から)夕日の照る国だ。
と漢字6字ずつ四行の対句形になっていて、更に東西南北の「四至」文である。
韓国は駕洛国(後の金官加耶)、大道が通り抜けとは一定の航路があるということか。
カササは昔の御笠郡(現在の筑紫野市あたり。
結局、古田武彦氏はニニギは筑紫の高祖山(図5:糸島市と福岡市の境にある)に降臨したとして、平原遺跡との関係を述べている。
 私は②を四行の対句形とみたのは卓見であると思う。ただし東西南北はよいが、「四至」が土地の東西南北の境界を示すものとすれば(例『住吉大社神代記』の四至文)違うかと考える。
 始祖神話には垂直的降下型・水平的海洋型がある、水平的海洋型は、西南太平洋の島嶼に広く見られる箱船漂流神話である。
日本の天孫降臨は垂直的降下型であり、古事記では高天原からクジフルタケに降臨したことになっている。では高天原はどこか?神話的には天上とするが、現実的にはあり得ない。
先にあげた「向韓國」や、金官国の首露伝説(本シリーズ(17)参考)との類似からも、 
ニニギは韓半島から渡来してきたと考えるのが合理的である。
つまり、ニニギは韓半島からの渡来人である可能性が大きい。私は加耶地方からの渡来とみている。

『日本の朝鮮文化―座談会』1972年中央公論社に湯川秀樹・上田正昭ら諸氏の座談会が掲載されているが、湯川秀樹氏はその中で「高天原はもともとは、どこか日本の外にあったわけでしょうね。(後略)」と述べている。

● 諸家の説を参考にして、私には自分なりの妄想がある。
 まず、弥生時代に加耶地方の人々が水田稲作文化をもって北部九州に渡来してきた。この渡来は数回というものではなく頻回だったと思う。村々が形成されはじめた頃、加耶で既に権力をもっていた部族の一団が渡来し、先着集団をまとめてクニを造った。それが例えばイト国である。イト国は北九州のクニグニを統率するほどの勢力をもつに至ったが、タウポ火山の大噴火に起因する飢饉によって倭国大乱が発生した。イト国の卑弥呼の予言によってイト国の中心勢力は太陽(日照)を求めて東へ移動した。吉備に着いた頃、火山灰による異常気象もかなり軽減し、足守川流域に定着し始めた。足守川河口から出土した大量の桃核は卑弥呼に由来すると考える。一方イト国の一部(神武の先代)は大乱以前から南部九州(後の日向国か)に移住していたが、異常気象のため本家の移住先である吉備を頼って吉備に移動する。(神武は古事記では吉備の高島宮に8年、日本書紀では3年滞在)しばらくして飽和状態になったためか、新天地を求めて吉備勢力の一部を加え、更に東方を目指し、河内・大和に先住していた縄文系部族ナガスネヒコを制圧して奈良盆地を入手した。これが神武伝説である。その後、吉備から吉備勢力が続々と奈良盆地に入植した。やがて、吉備勢力の主導で「新生倭国」体制(ヤマト王権)が纒向を大王都にして誕生した。

 考古学研究では、松木武彦氏2014によると、「弥生時代後期、足守川流域に爆発的な人口増加があった」と。ただし、住戸跡数から考察しているので、その増加が新しい渡来人によるものか、倭国内の他地区からの流入かは区別できない。
 足守川はカヤ(賀夜・香屋、蚊屋、賀陽)という広い地域を貫流しているが、この地は古くから韓半島の加耶からの渡来民が集住していたと思われる。地名は加耶に因むのだろう。この川の河畔に楯築遺跡があり、また足守川が当時の「吉備の穴海」に注ぐ河口の地(倉敷市上東遺跡)から9606個の桃核が出土している(纒向居館跡からは2800個)卑弥呼が一時吉備にいたのではないかと考えている。

 今どき天皇家の万世一系を信じる人は希だろう。崇神王朝・応神王朝・継体王朝(王権、政権)などの交替が論じられている。この崇神・応神・継体にしても主たる祖先が縄文人であるとはとても考えられない。どの王権の先祖も(韓半島経由の)渡来人とみるよりほかはないと考える。
我々日本人の大多数の人にしても先祖は弥生時代以後の渡来人である。純粋の縄文人は存在しないと言ってよいだろう。
世論調査では今の象徴天皇制を8割の国民が支持している。私はいくつかの理由で、それでよいと思う。
 
【 タウポ火山の大噴火に関係したと思われる渡来人(弥生時代後期) 】
 タウポ火山の大噴火(181年)により数年にわたる地球規模の凶作が発生した。
これにより、中国(後漢)では「黄巾の乱184年」などの反乱が続発し、後漢の滅亡に繋がった。
(参考:本シリーズ(6)の末尾)

倭国では、この時期に「倭国大乱」が発生している。 弥生時代後期にあたる。
「靈帝光和中倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王(下略)」(『梁書』)           
  (後漢の靈帝の光和年間(178 - 184年)に、倭国は乱れ、何年も攻め合った。
   そこで、卑弥呼という一人の女子を王に共立した)
また『三国志』に、「桓、靈之末,韓濊強盛,郡縣不能制,民多流入韓國」とある
  (後漢の桓帝の末と霊帝の末には韓、濊が強く盛んになり、後漢の郡や県は制御する
   ことができず、住民が韓に流入することが多かった)
            韓:韓半島南部、馬韓・辰韓・弁韓
    濊(わい):韓半島東北部、後の高句麗に重なる。
この韓半島の事件もタウポ火山大噴火に誘発されたとみれば、倭国大乱時に韓半島からの渡来人が増加していた可能性は大である。そこで私は、倭国大乱の根本原因は凶作による飢饉であり、土地争いや食糧収奪が多発したとみる。さらに三国志の記事から、韓半島南部から倭国へ食糧を求めて多数が渡来し、倭国乱を増幅したのでないかと考える。また卑弥呼は異常気象の快復を祈祷・予言し成功したと想像する。
 亀田修一氏2020は「弥生時代の終わりぐらいに渡来人の一つ小さなピークがある」と述べているが、同じ現象を捕らえているのだろうか。 
 なお、アメノヒボコとツヌガアラシトはこの大乱の時期に渡来したのでないかと私は考えている。(参考:本シリーズ(12))   
しかし、『日本書紀』ではヒボコは垂仁紀3年3月に、ツヌガアラシトは崇神天皇時代に渡来してきたとある。崇神・垂仁の時代は181年に近いのだろうか。

 参考のため、千田稔氏の論文抄録を転載する。
 オオクニヌシからアメノヒボコへ 』 千田 稔  1998
 近年出雲における多数の銅鐸の発見などによって出雲の古代における位置づけが論議されだした。本稿では絵画銅鐸の図像学的な解釈や、銅鐸出土地と『出雲国風土記』及び『播磨国風土記』の地名起源説話などから、銅鐸はオオクニヌシ系の神々を祭祀するための祭器であると想定した。また、『播磨国風土記』にみる、オオクニヌシ系の神々(イワ大神も含む)と新羅の王子の渡来と伝承されるアメノヒボコとの土地争いを倭の大乱を表すものとしてとらえた。通説にいうように、アメノヒボコは西日本の兵主神社にまつられたものとすれば、兵主神社の最も中心的な存在は奈良県桜井市纏向の穴師坐兵神社である。周知のように銅鐸は弥生時代の終末に使用されなくなり、それにとって変わるのが祭器としての鏡であるが、アメノヒボコで象徴される集団は鏡のほかに玉や刀子を日本にもたらしたという。つまり、倭の大乱をおさめ、後の三種の神器の原型をもって、卑弥呼は邪馬台国に君臨することになったと想定できる。したがって、邪馬台国は歴史地理学的に纏向付近に比定でき、これは近年の考古学の年代論から考察される纏向遺跡の状況と矛盾しない。
オオクニヌシからアメノヒボコへの転換は、記紀神話における天孫君臨の司令神がタカミムスヒとアマテラスであるという二重性と、神武天皇と崇神天皇がいずれもハツクニシラススメラミコトとして初代天皇として記紀が叙述する二重性にも理解の手がかりを与える。

 ●注:アメノヒボコとオオクニヌシ(イワ大神)の土地争いは下記にみられる。
  『播磨国風土記』
   揖保郡:粒丘
     宍禾郡:川音村、奪谷、高家里、伊奈加川、波加村、御方里
     神前郡:粳岡、八千軍

F1
              図1 

      「チャットGPT」PCでの使用法(無料)

最近のテレビで連日「ChatGPT」が話題になっています。
既にご使用の方も多いとは存じますが、まだご経験されていない方のために記します。

【 準備 】
1.メールアドレス
2.パスワードの事前作成:
  8字以上の大小英字、数字、記号(# $ % & など)の組合せ。
  多数の登録があり、カブるとreset password(やりなおし)を迫られる。
     私の場合2度resetしたが駄目で、
  結局先方から提案された十数字のパスワードになった。
3.携帯電話番号(ハイフンなし)

【 Sign up 】Open AI への登録です。
0.https://openai.com/blog/chatgpt をクリック(アクセスする)。
1.図1 が表示される。左下の 「Try ChatGPT↗」 をクリック。
F2
               図2

2.図2「□人間であることを確認します」が表示されたら
     □をクリック  。
F3
             図3

3.図3が表示される。 右の「Sign up」をクリック。 
 (左の「Log in」は Sign upが完了している場合に使用)
F4
              図4

4.図4が表示される。 ①にメールアドレスを入力し、②をクリック。
F5
                  図5

5.Open AI から、登録したメルアドにメールが届く。
  そのメール中に図5があり、その「Resend email」をクリックする。
 (登録したメルアドをOpenAIが確認するため)
F6
            図6

6.PC画面に、図6が表示される。  ①にパスワードを入力し、②をクリック。
  (図4と図6が合体している場合あり。
   つまり同一画面でメルアドとパスワードを登録する)

F7
              図7

7.図7が表示される。
     ①に姓名をローマ字で、First name枠に名  例 syohei
                                Last name枠に姓  例 otani    を入力し、
  ②に生年月日を 月/日/西暦年 で入力する。
   例:1915年11月3日なら「11/03/1915」 (半角、/ スラッシュ付き)
  ③をクリック
F8
                  図8

8.図8が表示される。スマホの電話番号をハイフンなしで+81に続けて入力。
              例:09012345678
F9
                図9

9.折り返し、スマホにSMSが送信されてくる。図9
  あなたのOpenAI認証コード ******(6桁の数字)

F10
              図10

10.PCの画面に、図10が表示されているので、
      この枠に、その6桁の数字を入力する。
F11

                 図11

11.図11が表示される。 以上で設定は完了です。

【 使用方 】
1.https://openai.com/blog/chatgpt をクリック(アクセスする)。
2.図1が表示される。左下の 「Try ChatGPT↗」 をクリック。
 (場合により、すぐ図11が表示されることあり)
3.図2「□人間であることを確認します」が表示されたら
     □をクリック  。
4.図3が表示される。 左の「Log in」をクリック。 
5.メールアドレスとパスワードを入力する
6.図11が表示される。
   (場合により3.4.5.が省略されることあり)
  図11の赤枠に日本語や英語などで設問を入力し、
  右側の青丸内の紙飛行機ボタンをクリックする。
7.簡単な設問では瞬時に解答が表示されます。

【 実例 】
よく晴れた日曜日 父母と公園に行った 桜が満開 池のボート ソフトクリーム 
これで300字以内の日記を作ってください
今日は素晴らしい晴天の日曜日で、父母と一緒に公園に出かけました。公園に着くと、桜が満開で、美しいピンク色の花びらが風に揺れていました。池にはボートが浮かび、水面に映る桜がとても幻想的でした。私たちはボートに乗って、桜のトンネルをくぐりながら、爽やかな風を感じながらのんびりと過ごしました。その後、公園内のソフトクリーム屋さん美味しいソフトクリームを食べました。甘くて濃厚な味わいは最高でした。今日は本当に楽しい一日でした。
感想
小学生の日記なら二重丸でしょう。(下線は筆者による)
私は小学生時代、夏休みは遊びほうけていたので、地蔵盆になってから嘘八百の日記をまとめ書きしていました。天気は友達に聞いたのかな。その時代にこのChatGPTがあったら!

 春を題にした俳句2首
 桜舞う 春の風に乗り 心和む
  春の光 満ち溢れる大地 芽吹く命
感想 素人の私にはトンデモ俳句と思われるのだが、秀句なんだろうか?

■問 少子化対策はどうすればよいか
少子化対策には様々なアプローチがありますが、以下にいくつかの提案を挙げてみます。
1.出産・育児支援の拡充
  出産・育児に必要な費用や時間的な負担を軽減するため、公的な出産・育児支援の拡
  充が必要です。例えば、育児休暇や保育園の充実、出産手当や子育て支援金の増額、
  育児にかかる費用の一部を補助する制度の創設などが考えられます。
2.働き方改革の推進
  労働環境の改善により、出産・育児と仕事の両立をしやすくすることが必要です。
  例えば、柔軟な勤務時間
感想 そつのない解答のようだが、こんなものか。

■問  正n面体のすべての頂点が、球に内接するか否かの判別式
私が最近気になっている問題です。条件を満たすものは正4面体、正6面体、正8面体、正12面体、正20面体の5つしかないことは知っているのですが、それを見出す数式を考えていたのです。
ネットでは見つかりません。
今日ChatGPTで質問すると、瞬時に答が返ってきました。
それが図12です。まだ検証はしていません。
F12
            図12

【 高精度な翻訳ツールとしてのChatGPT  ]
例1 フランス語

モンテクリスト伯
LE COMTE DE MONTE-CRISTO  Alexandre Dumas の冒頭
  モンテクリスト伯のあらすじは、下記サイトにupしています。
    ②モンテクリスト伯(抄)全      ①をまとめたもの

Marseille.—L'arrivée.
Le 24 février 1815, la vigie de Notre-Dame de la Garde signala le trois-mâts le Pharaon, venant de Smyrne, Trieste et Naples.

Comme d'habitude, un pilote côtier partit aussitôt du port, rasa le château d'If, et alla aborder le navire entre le cap de Morgion et l'île de Rion.

Aussitôt, comme d'habitude encore, la plate-forme du fort Saint-Jean s'était couverte de curieux; car c'est toujours une grande affaire à Marseille que l'arrivée d'un bâtiment, surtout quand ce bâtiment, comme le Pharaon, a été construit, gréé, arrimé sur les chantiers de la vieille Phocée, et appartient à un armateur de la ville.

Cependant ce bâtiment s'avançait; il avait heureusement franchi le détroit que quelque secousse volcanique a creusé entre l'île de Calasareigne et l'île de Jaros; il avait doublé Pomègue, et il s'avançait sous ses trois huniers, son grand foc et sa brigantine, mais si lentement et d'une allure si triste, que les curieux, avec cet instinct qui pressent un malheur, se demandaient quel accident pouvait être arrivé à bord. Néanmoins les experts en navigation reconnaissaient que si un accident était arrivé, ce ne pouvait être au bâtiment lui-même; car il s'avançait dans toutes les conditions d'un navire parfaitement gouverné: son ancre était en mouillage, ses haubans de beaupré décrochés; et près du pilote, qui s'apprêtait à diriger le Pharaon par l'étroite entrée du port de Marseille, était un jeune homme au geste rapide et à l'œil actif, qui surveillait chaque mouvement du navire et répétait chaque ordre du pilote.

■DeepL の翻訳
マルセイユ - 到着
1815年2月24日、ノートルダム・ド・ラ・ガルドの見張り台は、スミルナ、トリエステ、ナポリからやってきた3本マストの船ファラオン号に合図を送った。

いつものように、沿岸の水先案内人が港から直ちに出港し、イフ城をかすめ、モルジオン岬とリオン島の間に船を着岸させた。

船が到着すると、マルセイユではいつも大騒ぎになる。特に、ファラオン号のように、旧フォカイアの造船所で建造され、艤装され、固定された、地元の船主の船となるとなおさらだ。

ポメグを過ぎ、3枚のトップセイルと大きなジブ、そしてブリガンチンで前進していたのだが、あまりにゆっくりと、そして悲しげな足取りで進むので、不幸を察知する本能を持つ見物人たちは、船上でどんな事故が起こったのだろうと不思議に思った。とはいえ、航海術の専門家たちは、事故が起こったとしても、それが船自体に起こったものであるはずがない、ということで意見が一致した。
というのも、アンカーは固定され、バウスプリットのシュラウドは外されており、マルセイユ港の狭い入り口を通るためにファラオン号の舵を取る準備をしていた水先案内人のそばには、素早い動きと活発な目を持つ若い男がいて、船のあらゆる動きを監視し、水先案内人のあらゆる命令を繰り返していたからだ。
■ChatGPT の翻訳          
マルセイユ。――到着。
1815年2月24日、ノートルダム・ド・ラ・ガールド(ノートルダム・ド・ラ・ガルド)の見張りが、スミルナ、トリエステ、ナポリから来た三本マストのフェアオン号を発見しました。

いつものように、沿岸のパイロットがすぐに港を出発し、イフ城を通過し、モルジオン岬とリオン島の間の船に接近しました。

同様に、いつものように、サン・ジャン要塞のプラットフォームは興味津々の人々で溢れていました。なぜなら、特にフェアオン号のような船は、古代フォケアの造船所で建造され、装備され、マルセイユの船主によって所有される場合、マルセイユでは常に大きな出来事だからです。

しかし、この船は進んでいました。幸いにも、カラサレーニュ島とジャロス島の間に火山の揺れが作った海峡をうまく通過し、ポメーグを回り、三本のマスト、メインブーム、ブリガンティンを展開して進んでいましたが、とても遅く、悲しい様子でした。興味津々の人々は、災難が船上で起こった可能性を感じ取る本能を持っていたため、何が起きたのかと考えていました。それでも、航海の専門家たちは、もし何か問題があったとしても、船自体ではないだろうと認識していました。なぜなら、船は完全に操作されている船の状態で進んでいたからです。錨は下ろされていて、ブープレハウスも取り外されていました。そして、マルセイユ港の狭い入り口をフェアオン号を操縦しようとするパイロットの近くには、船の動きを監視し、パイロットの指示を繰り返す、目の活発な若い男性がいました。

例2 古代中国語 (隋書倭国伝の一節)

大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」明年,上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞。既至彼都,其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境內,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗。」於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。

■DeepL の翻訳
大永3年、王ドリス・ビクク(Doris Bikkhu)は朝貢のために使者を送った。 その使者は言った:「海西の菩薩の王子が法を再興したと聞いたので、巡礼して敬意を表し、数十人の沙門が法を学びに来た。 その国書は "天子が太陽に書く日の出は、天子が傷つかないところではない "雲と言った。 皇帝は、洪清と呼ばれる、見て不愉快だった: "野蛮人は無礼な本を持っている、聞いて繰り返さないでください。 翌年、送信Wenlinラングペイ清は日本で作る。 百済の程度は、竹島に旅行し、丹魯国に南を見て、ドゥスマ国を経て、海の中で非常に。 百済の民は中国や夏と同じであったので、夷狄と思った。 その国の人々は中国の人々と同じであったので、野蛮な大陸だと思っていた。 十束以降、彼らはみな日本に従属した。 倭王は数百人の小集団を派遣し、儀式を整え、太鼓や角笛を鳴らして出迎えた。 10日後、彼はダリ・コドビを200人以上の騎手とともに送り、郊外で労働させた。 彼らの首都に到着した後、王は清に会い、非常に喜んで、言った: "私は海の西部にある偉大な隋、正義の国であることを聞いたので、朝貢を送った。 私は蛮族、海の隅に隠れて、正義と礼儀を聞いていない、領土に滞在することです、すぐに会うことはありません。 今日、私は博物館を飾るために道を整え、大使を待つために、私は偉大な国が、新しい文化を聞くことを願っています。 清は答えた、"皇帝の徳は二礼と同じで、川は四海に流れるので、王は文化を賞賛して、歩行者を派遣してここに来て告げました。 そして清を自分の館に案内した。 その後、清は王のもとに人を遣わし、「勅命が成就したので、落書きは控えてください」と言った。 そして、王に宴席を設け、清に朝貢するよう求めた。 その後、清との関係は解消された。

■ChatGPT の翻訳 
大業三年、その国の王が多利思比孤という使者を派遣して朝貢を申し出ました。使者はこう言いました。「海西の菩薩天子(隋の皇帝)が仏法を復興されたと聞き、それゆえに朝拝に参り、同時に数十人の沙門も仏法を学びに来ました。」その国の書状には、「日出の国の天子が、日没の国の天子に無事を祈ります」と書かれていました。しかし、隋の皇帝はこれを見て不悅し、鴻臚卿に言いました。「蛮夷(外国)の書に礼儀を欠いたものは、もう聞かせないように。」翌年、隋の皇帝は文林郎の裴清を日本に使者として派遣しました。裴清は百済を通過し、竹島に到達しました。南方には耽羅国があり、それを経て都斯麻国に行き、大海の中に位置していることがわかりました。さらに東に進んで一支国に至り、それから竹斯国、秦王国に至りました。その地の人々は中国と同じような文化を持っており、彼らは夷洲(異国)と考えられていましたが、はっきりと理解できなかったようです。裴清はさらに十数か国を経て海岸にたどり着きました。竹斯国以東はすべて日本に属しているとされていました。日本の王は小徳阿輩臺を派遣し、数百人の従者と共に儀仗を整え、太鼓と角笛を鳴らして裴清を迎えました。その後、十日後には大礼哥多毗を派遣し、200人以上の騎士を連れて迎えました。両国の王たちは相互に会い、大変喜びました。日本の王は言いました。「私たちは海西(中国)が礼義の国であることを聞いており、それゆえに朝貢しました。私たち蛮夷の人々は海の隅に住んでおり、礼義については知識がありません。そのため、国境に留まっており、すぐにお会いすることができませんでした。今、清道(裴清)を迎えるために館を整え、大使の訪問を楽しみにしており、大国の新しい文化について学びたいと思っています。」裴清は答えました。「皇帝の徳は二つの儀式を統一し、その恩恵は四方に広がっています。王様が文化を尊敬されることから、使者がここに来てお話ししにまいりました。」その後、裴清は日本の王とともに館に入りました。その後、裴清は使者を通じて日本の王に言いました。「朝廷の命令が届いたので、お早めにお知らせいただきたい。」そこで、日本の王は宴会を催して裴清を送り、使者には裴清に従って貢ぎ物を持って行くようにしました。この後、朝貢は途絶えました。

例3 中世英語 The Canterbury Tales : General Prologue(GEOFFREY CHAUCER)

Whan that Aprille with his shoures sote
The droghte of Marche hath perced to the rote,
And bathed every veyne in swich licour,
Of which vertu engendred is the flour;
Whan Zephirus eek with his swete breeth
Inspired hath in every holt and heeth
The tendre croppes, and the yonge sonne
Hath in the Ram his halfe cours y-ronne,
And smale fowles maken melodye,
That slepen al the night with open yë,
(So priketh hem nature in hir corages):
Than longen folk to goon on pilgrimages
(And palmers for to seken straunge strondes)
To ferne halwes, couthe in sondry londes;
And specially, from every shires ende
Of Engelond, to Caunterbury they wende,
The holy blisful martir for to seke,
That hem hath holpen, whan that they were seke.

現代英語と日本語に訳してください。

■ChatGPT の翻訳
現代英語
When April with its sweet showers
Has pierced the drought of March to the root,
And bathed every vein in such liquid,
From which the flower's virtue is engendered;
When Zephyrus also with his sweet breath
Has breathed life into every wood and heath,
The tender buds, and the young sun
Has completed half its course in the Ram,
And small birds sing melodiously,
Who sleep all night with open eyes,
(So nature spurs them in their hearts):
Then people long to go on pilgrimages
(And pilgrims seek foreign shores)
To distant shrines, known in various lands;
And especially, from every county's end
Of England, they go to Canterbury,
To seek the holy blessed martyr,
Who has helped them when they were sick.

四月がその甘い雨とともにやってきて、
三月の乾燥を根本から裂けば、
あらゆる血管をそのような液体で浸し、
その中から花の美徳が生まれる。
そして、またゼフィルスもその甘い息で
すべての森や荒野に命を吹き込み、
優しいつぼみを、そして若い太陽を
白羊座でその半分の軌道を終えたとき、
小さな鳥たちは美しいメロディを奏でる。
彼らは夜通し目を開けたまま寝ている、
(だから自然が彼らを駆り立てる):
そして、人々は巡礼に出かけることを切望する、
(そして巡礼者たちは異国の海岸を求める)
遠い聖地へ、さまざまな土地で有名な。
特に、イングランドの各州の終わりから
カンタベリーに向かう、
聖なる幸福な殉教者を探しに、
彼らが病気だったとき、助けてくれた。

(感想)
例1 現代文(古典ではあるが)では、DeepL,ChatGPTは甲乙つけ難い。
例2 中国古代語はDeepLの対象になっていないので、良い結果を求めるのは酷であろう。
  一方ChatGPTが古代中国語もそれなりに翻訳してくれるのがわかり、強い味方を得た感
  じである。
例3 ChatGPTは中世の英語も翻訳してくれる。素晴らしい!
   英文学の講義で、冒頭のsote(ソーテと発音)、rote(ローテ)の韻など教授が熱く
   説明されたのを想い出した。

HengwrtChaucerOpening

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