図1 高麗神社(埼玉県日高市)
【 日本書紀にみる古墳時代から持統紀までの渡来人関係記事 】
今回の章は私のノート的な内容です。無味乾燥であり、お読み飛ばしてください。
【 古墳時代 】
古墳時代の始期を箸墓古墳の出現時期と考える学者が多い。問題はその成立時期であるが、260~270年とする意見が主である。古墳時代の終わりは前方後円墳の築造が概ね終了した6世紀末とするようである。
【 日本書紀にみる古墳時代の渡来人関係記事 】
■ 神功皇后紀
5年条に葛城襲津彦が韓半島から人々を連れ還った話がある。紀には「今の桑原・佐糜・高宮・忍海の四邑の漢人(あやひと)の始祖」と記す。4世紀末頃と考えられ、千賀久2020は百済・加耶の工人とみている。この渡来人たちが中心になって、南郷遺跡群にみられる鉄器生産を核とした手工業生産基地が発展した。
■ 応神紀 には渡来人の記事が多数ある。
仮に、倭の五王の讃を応神天皇に比定すると、4世紀末から5世紀初期の話になるか。
・7年:高麗人・百済人・任那人・新羅人が渡来。韓人池を作らせる。
『大和志』では、現在の奈良県田原本町の唐古池に比定。
・14年:百済王が縫衣工女の真毛津を贈ってきた。来目縫衣の始祖となる。
・14年:弓月君が百済から渡来した。自国の120県の人民を率いてきたが、新羅人の妨
害で皆加羅国に停留しているという。
(16年木菟宿禰らを加羅に派遣し彼らを連れ帰る)
・15年:百済王が阿直伎を派遣し、良馬2匹を贈る。
阿直伎は馬飼役をしたが、経典をよく読み阿直伎史(ふびと)の始祖となる。
・16年:王仁(わに)は阿直伎の推薦で百済から招聘さる。多くの典籍を教える。
千字文と論語を伝えたと古事記にあるが、千字文は当時未成立とされる。
書首(ふみのおびと、西文氏、河内書氏)の始祖。
・20年:阿知使主(あちのおみ)がその子・都加使主および17県の自分の輩を率いて渡来してきた。
倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の始祖。
倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の始祖。
・31年:諸国に造らせた船500隻を武庫の港に集めていたが、同港に停泊した新羅使の船の失火で多くの船が類焼した。新羅王は木工技術者を貢上し謝罪した。猪名部等の始祖となる。雄略紀13年に木工・韋那部真根あり。
(猪名寺・猪名川・猪名野(兵庫)、いなべ市(三重)、伊奈町(愛知)、伊那市(長野))
・37年:阿知使主と都加使主を中国の江南(南朝)に派遣し、縫工女(きぬぬひめ)を求めさせた。4年後阿知使主らは兄媛・弟媛・呉織・穴織の4人の縫工女を連れて帰国する。
兄媛は宗像大神に奉られ、筑紫の御使君の祖となる。他の3人は仁徳天皇に献上された。
後の呉衣縫・蚊屋衣縫の祖となる。(檜隈に居住する東漢氏の管理下に置かれたようだ)
しかし、この話は雄略紀14年条の話と酷似し、本居宣長1798『古事記伝』は雄略時代の事柄とみる。
・39年:百済の直支王の妹である新斉都媛が7人の侍女を率いて渡来。
(渡来理由は不明だが、倭国人と婚姻して移住したとする説がある)
■ 雄略紀
雄略が倭の五王の武とすれば、雄略は五世紀中期から後半の天皇になる。
・2年:百済から王族の娘・池津媛が貢進(人質)されたが、宮中に入る前に天皇臣下の石川楯と通じたため、雄略は二人は焼き殺させた。
・2年:雄略天皇は史部(ふみひと)の身狭村主青(むさのすぐりあお)・檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかひはかとこ)等のみを寵愛したとある。両名は後述の東漢氏に属する。比較的新しく百済?からきた漢人の渡来人であり、高市郡に住んでいたのだろう。呉(宋)との外交に従事しているが、倭王武の上表文も彼等が書いたのかもしれない。
・5年:百済の蓋鹵王は倭に人質を出すに当たって、前出の池津媛の例を遺憾に思い、女子を出さず、弟の昆支王(軍君)を送ってきた。(人質は倭の軍事援助に対する保証)
この時蓋鹵王は妊娠中の夫人を昆支王に与えている。産まれた子が後に武寧王になったのだが、その経緯は私のブログ『上田正昭先生と平成天皇ご発言 その3』を参照されたし。
昆支王は人質であって渡来人ではない。『三国史記』には475年の百済復興後に百済に帰り、477年に死亡とあるが、『日本書紀』には来倭後の動静の記述がない。近つ飛鳥付近(飛鳥戸郡)には百済からの渡来人が集住していたので、昆支王を祀る飛鳥戸神社が建てられた。飛鳥戸造は昆支王の末裔ともみられる。
・7年:西漢才伎(かふちのあやのてひと)の歓因知利(かんいんちり)が命を受け、百済から今来の才伎(先端技術者のようなもの)を貰い受けた。彼等は渡来後、東漢直掬の傘下に入り、高市郡の上桃原・下桃原・真神原に居住させた。陶工(須恵器)、馬具製作者、画工、高級織物製作者、通訳たちである。(桃原は石舞台の地、真神原は飛鳥寺の地)
・11年:呉(宋か)の人である貴信が百済経由で渡来してきた。磐余の琴弾壃手屋形麻呂らはその後裔である。
・12年:身狭村主青と檜隈民使博徳を呉(宋)に派遣。
・14年:身狭村主青らが呉国の使者および呉が献上した技術者たちと共に帰国した。
呉の技術者らは檜隈野に住まわせた。それで呉原という(現在の栗原はこの転訛か)。衣縫の兄媛は大三輪神に奉り、弟媛は漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫の祖である。(応神紀37年条の記事はこれの混同らしい)
・15年:応神朝に渡来したとされる秦氏の民は秦造が統括していたが、この年天皇の家臣である臣連に分散して所属させ、自由に使わせた。このことを雄略の寵臣である秦造酒(秦酒公)が憂うのをみて、雄略は秦の民を集め秦酒公に授けた。酒公は喜び、全国に分散している180村の村主を集め、調・庸の絹をうずたかく盛り、朝廷に献上したので「うづまさ」の姓を賜った。(この故事から「太秦」をウズマサと読む)
■ 仁賢紀
・6年:日鷹吉士が高句麗に派遣され、巧手者(てひと、技術者・職人)を求めた。
工匠の須流枳・奴流枳を連れ帰った。大和国山辺郡額田邑の熟皮高麗はその後裔である。
(熟皮=皮のなめし、革の加工)
■ 武烈紀
・7年:百済王が斯我君(百済王族か?)を派遣してきた。その後、子が生まれて法師君という。これが「倭君(やまとのきみ)」の先祖である。(後に「桓武天皇」で述べる)
■ 継体紀
・1年:継体が皇位を受ける場面で河内馬飼首荒籠が重要な役を果たすが、渡来人であろう。(継体紀23年に河内馬飼首御狩、欽明紀に河内馬飼首押勝・馬飼首歌依がある)
・7年:百済が五経博士を送ってきた。前年の任那四県割譲に対する代償である。五経博士とは儒教学者であるが、識者であり官人の教育など文化向上に益した。五経博士は渡来人ではなく、3年後には交替している。(欽明紀15年にも五経博士交替の記事あり)
・7年:「百済の太子淳陀薨ず」の唐突な記事がある。(後に「桓武天皇」で述べる) (書紀には「淳陀」はこの1件しか見ない。来倭の記事はない。仮に百済で死亡なら瑣末な記事であり、書紀に掲載するのは不可解である。私は720年書紀成立後に書き加えたのではないかとまで想像する)
■ 欽明紀
・前紀:幼少時夢にみたお告げに従い、山背国深草の秦大津父(秦氏)を重用し、即位後大蔵省に任じた。
・1年:百済人・己知部が帰化した。大和国添上郡山村に置く。山村己知部の先祖である。
・1年:秦人・漢人ら諸蕃からの渡来人を集め、諸国に安置し、戸籍に登録した。
秦人の戸数は7053戸で、大津父を秦伴造(はたのとものみやつこ)とした。
・14年:蘇我大臣稻目は王辰爾(百済からの渡来人、事務に秀でる)を派遣し、船の税を記録させた。王辰爾はこの功績によって船司に任ぜられ、船史の姓を与えられた。
・15年:百済に軍事援助する見返りに、五経博士・僧・易博士・暦博士・医博士・薬博士・楽人を交替させた。
・17年:蘇我稻目に大和国高市郡身狭(橿原市見瀬町)に韓人大身狭屯倉(百済人)と
高麗人小身狭屯倉を置かせた。
・23年:新羅使が帰化。河内国更荒郡鸕鵾野邑の新羅人の祖。
・26年:高麗人らが筑紫で帰化し山背国に安置。畝原・奈羅・山村の高麗人の祖。
・30年:膽津(王辰爾の甥)が白猪屯倉の戸籍を完成した功で白猪史の賜姓。
(百済から渡来して間もない文字技能者のようだ)
・31年:高麗の使人が遭難し越に漂着。山城国に相楽館を建て保護した。(渡来ではない)
■ 敏達紀
・1年:王辰爾 高麗国書を解読したが、西文氏(王仁の後裔)・東文使(東漢氏の一族)がこれを読めなかったので、天皇は彼等を督励した。
・6年:百済王が律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を献じた。
・12年:日羅(倭系百済官僚)の話
・13年:蘇我馬子は二体の仏像を得て、鞍作村主司馬達等(後述)・池辺直氷田(東漢氏の一族)を方々に派遣し、修行者を探させた。播磨国に高麗の恵便という還俗者を得て、馬子は彼を仏法の師とし、達等の娘ら3人を出家させ尼とした(善信尼など)。
■ 用明紀
・2年:用明が疱瘡に罹り臨終のとき、鞍作多須奈(後述)が進み出て「天皇のために出家し、仏像と寺を造り奉ります」と奏上した。南淵の坂田寺と丈六の木仏がそれである。
■ 崇峻紀
・1年:法興寺の建立のため、百済から仏舎利・僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工など
十数人を送ってきた。百済使の帰国時、百済で仏法を学ぶため善信尼らを同行させた。
真神原の樹葉(このは、飛鳥衣縫造の祖、cf雄略紀7年および14年)の家を撤去し、ここに法興寺を起工した。
【 日本書紀にみる飛鳥時代(狭義)の渡来人関係記事 】
(註記)「帰化」という言葉は議論の多い語である。
「帰化」には「君主の徳に感化されて、そのもとに服して従うこと」の意味があり、華夷思想や王化思想と結びつくので使用したくない言葉ではある。しかし、律令国家成立以前でも飛鳥時代のように王権が確立している環境に自分の意志でその国の一員となることを承知して渡来してきたものを、弥生時代や古墳時代初期のように「渡来」と表現するのに抵抗を感じる。
適当な言葉がないので、そのようなcaseでは「帰化」を用いた。
■ 推古紀 593~
・1年:厩戸王は仏教を高麗の僧・慧慈に習い、儒教を博士・覚哿に学ぶ。
・3年:百済僧・慧聡が来倭。慧慈と慧聡の両僧は仏法を広め、三宝の棟梁となる。
・10年:百済僧・観勒が来倭し、暦・天文地理・遁甲方術の書を献ず。書生数人を選び、観勒に習わせた(古墳時代に渡来した氏族の子弟が多い。漢字の素養の関係か)
また 高句麗僧・僧隆、雲聡が帰化した。
・11年:秦河勝は厩戸王の保有する仏像を貰い受け、蜂岡寺(広隆寺)を造った。
・13年:鞍作鳥に命じ、丈六の仏像を造らせる。
・16年:隋使・裴世清が帰国時、遣隋使・小野妹子らと共に、留学生ら8名を同行させた。(第三回遣隋使、608年)
・16年:新羅人が多数帰化した。
・17年:百済が呉国に遣わした船が暴風により肥後に漂着した。朝廷は百済に送還したが、乗員86名中の11人の修行者が帰化を希望し、許可して元興寺に住まわせた。
・18年:高句麗王が僧・曇徴、法定を貢上。曇徴は五経に通じ、絵具、紙、墨を作り、水車を動力とする臼も造った。
・20年:この年、百済からの帰化人が多かった、その中の芝耆摩呂は御所に須弥山と中国風の橋を築き、路子工とよばれた。味摩之は中国で学んだ伎楽の舞が出来るというので桜井に住まわせ、集めた少年たちに伎楽の舞を習わせた。その中の真野首弟子、新漢済文はその舞を後に伝えた。大市首、辟田首の祖である。
・24年:屋久島人が相前後して渡来。計30人を朴井(和泉?)に安置するも、帰郷を待たず、皆死んでしまった。
・31年:隋に留学していた僧・恵斉、恵光と薬師・恵日、福因らが新羅使に同行して帰国した。隋唐交替を経験してきた恵日らは、「唐に滞在している留学生たちは、もう既に皆、学びて業を成し遂げています。 召還 すべきでしょう。大唐国は法式が完備した立派な国(珍国)です。常に往来して交わりを保つのがよいでしょう」と上奏した。
・33年:高句麗王が僧・恵灌を貢上す。
■ 舒明紀 629~
・1年:田部連らを屋久島に派遣した。翌2年に帰還した。
・3年:屋久人が帰化した。
・3年:百済の義慈王が王子・豊璋を人質として送ってきた。
・4年:第一次遣唐使の送使として高表仁が来倭。この船で隋・唐に留学していた学問僧・霊雲、僧旻、勝鳥養が帰国。
・11年:百済大宮・百済大寺の建設に当り、書直縣(東漢氏の一族)を棟梁とした。
・12年:隋・唐に留学していた南淵請安・高向玄理が帰国
■ 皇極紀 642~
・1年:百済の王子・翹岐が放逐され来倭。(翹岐=豊璋 説あり)
・3年:中大兄皇子と中臣鎌足が南淵請安の塾に通う。
・3年:東国の富士川辺りで、大生部多という男が蚕に似た虫を常世の神として祭る新興宗教を広めた。これに惑わされ財産を失う人々が続出した。葛野の秦河勝はこれを憎み大生部多を打ち懲らしめた。
■ 孝徳紀 645~
・1年:朴市秦田来津らが古人大兄皇子の叛に関与するも処罰なし。
■ 斉明紀 655~
・6年:百済の福信が唐の捕虜106人を献じた。近江国の墾田に配置したが、後に美濃国の不破・片県の2郡に移す。
『釈日本紀』が引用した『調連淡海日記』は壬申の乱で天武に随従した舎人・調淡海の回顧録であるが、その中に天武が近江軍との戦いの参考のため唐人に唐軍の戦略を質問した場面がある。その唐人が福信が贈ってきた捕虜だとする説があって面白い。
私が気になるのは、白村江の敗戦で唐の捕虜は当然返還すべきだが、書紀には記載がない。
■ 天智紀 662~
・即位前紀(661):9月豊璋に織冠を授け、狭井連檳榔・朴市秦田来津が5千の軍を率い、百済に護送した(第一次派遣軍)。この後、秦田来津は白村江で憤死する。
・2年:(白村江敗戦)9月倭軍引揚げの際、百済の高官から人民までのかなりの人が同乗渡来。
・3年:倭に滞在していた百済王子・善光を難波に置く。
(旧国王王子の立場で、貴族層を含む亡命百済人たちの統率と秩序かを図るため)
・4年:百済人民400余人を近江国神前郡に置き、田を給付した。
・5年:高句麗は唐・新羅に攻められ、この年倭に2度援軍要請の使節団を派遣した。
(その一員に「二位玄武若光」の記載があるが、後の武蔵国高麗郡長官若光との
異同は不明)
百済人民2千余人を東国に移配。
多くの亡命百済人は天智2年(白村江)より3年間、難波に安置されて官から食
料を支給されていた。
・8年:佐平余自信・佐平鬼室集斯ら百済人男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居させる。
・10年:帰化した百済貴族官人、佐平余自信以下多数に位階を与えられた。
■ 天武紀 672~
・4年:筑紫から貢上された唐人30人を遠江国に安置。(経緯詳細不明)
・6年:天武天皇は東漢氏に対し「七つの不可を犯した」と厳重注意の勅を出した。
しかし、11年には東漢氏に「連(むらじ)」の姓(かばね)を与えた。
2年後の天武13年制定「八色の姓」で「忌寸(いみき)」に変えられた。
(直→連→忌寸)
・13年:帰化した百済の僧尼俗の男女23人を武蔵国に安置。
■ 持統紀 687~
・前紀:筑紫大宰が高麗・百済・新羅の人民62人を献上
・1年:投化した高麗人56人常陸国に安置。投化した新羅人14人を下毛野国に安置、
新羅人22人武蔵国に安置。
・2年:百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。
・3年:帰化した新羅人を下毛野国に安置。
・4年:新羅の僧ら50人が帰化してきた。そのうち韓奈末許万ら12人を武蔵国に安置。
百済の男女21人が帰化。
帰化した新羅人らを下毛野国に安置。(上記50人と同じ人々であるかは不明)
・7年:百済王善光に正広参(諸臣48階の第6位)を叙位。
【 斉明朝から持統朝までの戦乱に由来する渡来人 】
■ 百済人
天智2年9月:白村江敗戦で周留城に立て籠もっていた百済人が多数難民として来倭した。
天智3年:百済王善光らを難波に置いたが、次々と来倭する百済人は一旦難波に集め、官から食料を支給されていた。
天智4年:百済人民4百余人を近江国神前郡に置き、田を給付した。
天智5年:百済人民2千余人を東国へ移配(入植させた)。
(『日本後記』799年の記事に、「甲斐国居住の百済人190人が姓を変えて欲しいと要望」
とある。恐らく、上記2千人のうち数十が甲斐に移配されたのだろう
天智8年:佐平余自信・佐平鬼室集斯ら百済人男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居させる。
天武13年:百済の僧・尼・俗の男女23人が化来、武蔵国に安置
持統前紀:筑紫に渡来していた高麗・百済・新羅の人民62人を難波に移す
持統2年:百済の敬須徳那利を甲斐国に移す
持統4年:百済男女21人帰化
■ 高句麗人(高句麗は天智7年(668年)滅亡した)
持統前紀:筑紫に渡来していた高麗・百済・新羅の人民62人を難波に移す
持統1年:帰化した高句麗人56人を常陸国に安置
■ 新羅人(戦乱を避けたとか、国内の政治事情によるのだろうか)
持統前紀:筑紫に渡来していた高麗・百済・新羅の人民62人を難波に移す
持統1年:帰化した僧・尼・百姓の男女22人を武蔵国に安置
持統3年:帰化した新羅人14人を下毛野国に安置
持統4年:新羅の僧・官人ほか50人が帰化した。
新羅の官人・許万ら12人を武蔵国に安置
帰化した新羅人らを下毛野国に安置(新たな帰化人か、先の50人かは不明)
■ 唐人 (白村江以前に、百済から捕虜として倭に送ってきたもの)
斉明紀6年(660)10月条に、「百済の鬼室福信が唐の捕虜100余人を献じてきた。今、美濃国の不破・片県の2郡にいる唐人である」と記す。
更に斉明紀の最後に、次の注釈がある。「『日本世記』には斉明7年に福信が捕虜にした唐人が筑紫に着いたとあり、また別の本には斉明7年に福信が献じた唐人捕虜106人を近江国の墾田に配置したという。しかし、斉明6年に既に福信が唐人捕虜を献じたと云う。これらのことは書き留めておくが、いずれかに決めよ」と。
おそらく、唐人捕虜の献上は1回であり、錯綜しているのだろう。
私が興味を持つのは2点である。
①唐人捕虜であるなら、白村江の敗戦後に3度(あるいは4度)来倭した郭務悰などに返還すべきである。書紀に全く記載がないのはなぜか?
②壬申の乱の際、大海人(天武)は美濃国不破の野上に不破宮を置いた。戦前の大本営に当たる。ここで近江軍に対する作戦を練った。この時の様子を舎人が乱後に日記に書いた。
この舎人は吉野宮から大海人に従った二十数人の一人で、調淡海という。日記は散逸して現存しないが、一部が『釈日本紀』に引用された。それによると、大海人は唐国が数々の戦争を経験しているので、唐人は戦術を熟知しているだろうとして、不破に住んでいる唐人を召して下問した、というのである。もしその唐人が斉明6年の捕虜とすれば、残留していた証拠になる。
(天武紀4年の筑紫から貢上された唐人30人を遠江国に安置については詳細不明)
■ 摂津国百済郡
天智3年(664年)善光の難波移住の周囲に百済難民を集めて成立した郡であるが、郡域は明らかでない。現在の大阪市生野区・天王寺区・東住吉区・阿倍野区にわたる地域と推定される。
また「百済郡」の名称そのものの成立時期も不明だが、霊亀元年(715年)と推定される長屋王木簡に「「百済郡南里車長百済部若末呂・・」とあるのが初見資料である。
■ 武蔵国高麗郡
高麗郡は霊亀2年(716)に建郡された。『続日本紀』霊亀2年5月16日条に『駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の高麗人1799人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く」とある。既存の入間郡を割いて高麗郡を建てたようだ。地理的には、ほぼ現在の埼玉県日高市・飯能市に当たる。この地には石器時代から縄文時代の遺跡はあるが、716年頃には稲作に適しない無人の地域で、上記移住者が開拓を始めた。
前記の高句麗人の項には常陸国しか記載がない。それが東国七国に散らばっていたということは、滅亡以前からの渡来によるのだろうか。
朝廷は当時中央集権国家を目指し、地方行政機構の整備に注力していたので、そのモデルとしたのが建郡の大きな理由と考えられている。
リーダーとして、高麗若光(こまのじゃっこう)を当てた。若光は高句麗国の最後の王である宝蔵王の子ともされる。天智紀5年(666)に高句麗から援軍要請のために派遣された副使の中に玄武若光がいるが、同一人かは不明。『続日本紀』によると大宝3年(703)に従五位下高麗若光は「王」(こにきし)の姓(かばね)を与えられている。百済王氏に対応している。
現在の日高市に高麗神社(図1)がある。主祭神は高麗王若光で、若光死没の8世紀創建とみられる。
■ 武蔵国新羅郡
高麗郡と同様『続日本紀』天平宝字2年(758年)条にに次の記載がある。
「帰化の新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移す。是に於いて、始めて新羅郡を置く」
当時の郡域は現在の埼玉県和光市・朝霞市・志木市・新座市あたりとみられ、閑地とあるからには、あまり利用されていない地域だったのだろう。
上記の総計は74人だが、前記のように持統1年と4年に武蔵国に安置したものも加わったのかもしれない。なお、2年後の『続日本紀』天平宝字4年(760年)条に、「帰化した新羅人131人を武蔵国に置く」とある。
■ 上野国(かみつけのくに)の問題
上記で興味深いのは、東国移住記事の中に上野国を見ないことである。これはこの地が既に五世紀頃からの渡来人移住によって開発され、閑地が少なかったからであろう。
なお、711年(和銅4年)の多胡郡建郡は古くからの渡来人の再編成を示しているかもしれない(亀田修一2020)。
建郡を記念して建てられた石碑「多胡碑」(図3)は有名であり、碑文内容を要約すると「和銅4年、上野国の3郡から300戸を分離し、新郡「多胡郡」を建郡し、羊(人名)に支配を任せる」。羊は新羅人とされる。
建郡を記念して建てられた石碑「多胡碑」(図3)は有名であり、碑文内容を要約すると「和銅4年、上野国の3郡から300戸を分離し、新郡「多胡郡」を建郡し、羊(人名)に支配を任せる」。羊は新羅人とされる。
■ 坂東武士のルーツ
ここでは詳述しないが、東国に移配された渡来人たちは新技術によって閑地を開拓し、豊になっていった。馬の飼育・乗馬・騎射に慣れた渡来人にとって、武士への転換は容易だったと思われる。鈴木治氏『白村江』1972は「中世における武士の発生は帰化人子孫」と述べている。