(対岸は扶蘇山城、船着き場の上が落花岩)
【 百済の滅亡 】
【 唐羅同盟 】
640年代の唐および韓半島三国の情勢は本シリーズ(22)皇極で少し述べた。
新羅は法興王(514-540)代ですでに征服王朝の性格を現していたが、次の新興王代(540-576)は新羅の征服王朝の全盛期であった。この王の時代に領土は東北の咸鏡南道(平壌の東北)・京畿道(ソウル周囲)から南は伽耶を含む最大の版図となっていた。
しかし、642年の高句麗・百済による党項の攻撃や、百済の伽耶侵入の打撃を受けていた。
650年代に入っても、新羅対高句麗・百済の敵対関係が続いていた。
孤立した新羅は唐を頼みとした政策を進めた。王族の金春秋は648年唐に派遣され太宗に厚遇され、支援を得ることに成功した(唐羅同盟)。太宗にしてみれば、高句麗征伐の遠交近攻策であっただろう。
(金春秋は書紀では647年に質として来倭しているが、1年足らずで帰国していたのか。また実際には来倭していなかったとする説あり)
金春秋は唐から帰国時、三男の金文王を質として残した。650年には新羅独自の年号を廃し、唐の年号を用い、また孝徳紀2年(651)条に新羅使者が唐服を着て筑紫に来たとある。(新羅の唐化政策)
655年1月新羅は高句麗・百済連合軍に侵攻され、北部33城を奪われた。このとき金春秋は真徳女王を継ぎ武烈王(在位654-661年)になっていた。救援を求められた唐は3月に程名振・蘇定方を遣わし高句麗を撃った。
図3 百済滅亡要図
【 唐の百済出兵 】
659年4月またもや百済が新羅の辺境を頻繁に犯しだした。武烈は唐に救援を請願した。
しかし、半年経っても唐の動きはない。
新羅本紀は、「武烈王が憂鬱な顔をして座っていると、突然昔の寵臣二人が現れた。「私どもはもう骨になっていますが、報国の心は変わりません。昨日、唐の様子を見に行きますと皇帝が蘇定方に来年5月百済を征伐するよう命じたことを知りました。そこで早速ご報告に参った次第です」と言うなり消えた。王は大いに驚き、両人の子孫を褒賞し、両人の冥福のために寺を建てた」と記す。
新羅本紀は、「武烈王が憂鬱な顔をして座っていると、突然昔の寵臣二人が現れた。「私どもはもう骨になっていますが、報国の心は変わりません。昨日、唐の様子を見に行きますと皇帝が蘇定方に来年5月百済を征伐するよう命じたことを知りました。そこで早速ご報告に参った次第です」と言うなり消えた。王は大いに驚き、両人の子孫を褒賞し、両人の冥福のために寺を建てた」と記す。
唐としては、長年高句麗を攻撃しながら成功しなかったため、矛先を百済に換えようと決断したしたようである。新羅の出兵要請に応えた形で659年冬から百済征討の準備を始めた。この頃まで高宗を輔政していた長孫無忌(高宗の伯父、外征に消極的?)に替わって皇后の武則天(則天武后)が実権を得たのが影響したのかもしれない。
660年3月蘇定方を大将軍とする13万人の唐水陸軍が山東半島から黄海を渡り韓半島に向かった。高宗は当時唐国にいた金仁問(武烈王の二男)をその副将軍にしている。
5月26日新羅の武烈王は金庾信らと金城を出発し、6月18日に南川(利川)に着いた。
そして、法敏太子(後の文武王)を徳物島に遣わし100艘の兵船を準備して6月21日の定方軍到着を出迎えさせた(徳物島は牙山湾沖の島)。定方は「我らはここから南下して百済の熊津江口(錦江河口)に向かう。7月10日新羅軍とその地で合流し、連合して百済王城(泗沘城)を落とそう」と言った。
定方は唐軍を二手に分け、定方が率いる陸軍は牙山湾の南岸・唐津に上陸して陸路南下し、水軍は法敏が贈った船で南下し水陸共に熊津江口に向かった。
図4 韓国映画『黄山ヶ原』
【 黄山伐の戦い 】
百済はその頃、ようやく唐の襲来を知ったらしい。青天の霹靂だった。
かって義慈王の享楽ぶりを諫死した重臣・成忠は生前、泗沘を外敵から守るには陸路では
炭峴、水路では白江が重要であり、ここに防御体制を敷くべきであると説いていたが、群臣の同意がなく採用されていなかった。 (白江は現在の錦江の河口、即ち白村江の戦いの場付近に比定されるが、炭峴については諸説あり確定していない)
金庾信が率いる5万の新羅軍は既に要地の炭峴を通過し熊津江口に向け進軍していた。
百済の階伯(ケベク)将軍は僅か5千人の手勢で黄山伐(伐は平野の意味の当て字)に出向き、新羅軍を阻止せんとした。7月9日庾信軍が黄山ヶ原に入ると、階伯は3箇所の山城に兵士を配して待ち構えていた。虞信等は、軍を三つに分け、四度戦ったが敗れ、兵は疲弊した。
このとき、新羅将軍欽純の息子が単騎で敵陣に突入し力戦の上戦死した。これを見た新羅軍は奮起し、遂に百済軍を殲滅した。
・黄山伐:黄山は現在、連山と呼ばれる。泗沘(現在は扶余)の東南にある。(図3)
『黄山ヶ原』は2003年公開した韓国映画の日本題名。メガヒットしたと。
【 熊津江口 】錦江河口
一方、蘇定方の唐陸軍は予定どおり、7月10日熊津江口に到着した。てっきり新羅軍が迎えると思っていたのに、そこに見たものは百済兵であった。定方は東岸に登り、山に陣を設け戦っていると、唐水軍が相次いで到着したので、百済軍は死者数千人を出して四散した。
やがて、金庾信の新羅軍が到着した。蘇定方は約束の7月10日に新羅が遅れたことで激怒し、新羅の督軍(軍政長官)金文穎を斬ろうとした。そこで金庾信は軍門に鉞(王から授与されたマサカリ)を杖に立ちはだかり大音声で叫んだ、「大将軍(定方)は黄山の激戦のことを見もしないで、期日に遅れたと言って罰しようとするのか。吾らは罪なくして恥辱を受けるわけにはいかない。こうなれば、先に唐軍と決戦し、それから百済を殲滅する」。金庾信は怒髪天を衝き、腰の剣が鞘から踊り出さんばかりだった。庾信の権幕に、新羅の離反を畏れた蘇定方の部下の取り成しで罪を許された。(金庾信の大芝居か)
図5 扶余(泗沘)文化観光地図 (中埜和男さま【世界の旅】より)
(本シリーズ(17)欽明にも同工の図あり)
【 泗沘落城 】
斉明紀6年(660)是歳条に童謡(わざうた)が記載されている。
摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美
烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝
暗号のように難解であり、多くの説がある。江戸時代の橘守部によると、
「真開く 呉図礼の津の 尾の上田を 雁々が食う。 御狩の 尾の上田を 雁々が食う」
で、(折角開墾した山の上の田(百済)を雁(唐)がきて食うぞ)の意味だという。
さて唐羅軍は錦江を遡り、泗沘を目指して進軍した。水軍は上げ汐に乗って舳艫を連ねて遡上した。定方ら陸軍は岸上を進撃した。王城から20里のところで百済軍が待ち構えていたが撃破した。
7月12日、唐羅軍は泗沘を包囲。百済王族の投降希望者が多数出たが、唐側は拒否。
7月13日、義慈王は王子孝とともに熊津城に逃亡。太子隆は降伏し、泗沘は落城した。
新羅の王子・法敏(文武王)はかって妹を虐殺された恨みから、跪かせた太子
隆の顔に唾を吐きかけた(新羅本紀)。(金春秋は娘を大耶城城主に嫁してい
たが、義慈王が642年新羅を侵犯したとき大耶城城主夫妻を斬首した)。
また有名な落花岩伝説(宮女三千人が崖上の岩から白馬江に身を投げた)はこ
のときのことになるか。
7月18日、義慈王が降伏して、百済は滅亡した。
8月2日、定方は戦勝の大宴会を催し、義慈王以下の諸王子を堂下に座らせ、義慈王に酒
を注がせたりしたので、百済の旧臣で泣かない者はいなかったと。(新羅本紀)
また義慈王は面縛されている。(『旧唐書』顯慶5年(660)8月条)
9月3日、蘇定方は唐に凱旋する。
定方は戦勝記念として、泗沘の中央にある定林寺に 大唐平百済塔を建てていった。
図6 落花岩から白馬江を望む (錦江Wikipedia:Frankhöffnerさま作品)
図9 大唐平百済碑銘 拓本 (東京国立博物館の画像より)
■扶余定林寺址五層石塔
初層塔身四面に,蘇定方が撰文した大唐平百済碑銘が刻まれている。
2015年世界遺産の文化遺産に登録された。 図9はその碑銘冒頭文の拓本
蘇定方は帰国時、百済の義慈王などを唐都に連行した。
・定方以王及太子孝、王子泰、隆、演及大臣、將士八十八人、百姓一萬二千八百七人,
送京師。(百済本紀)
・虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送于京師,上責而宥之。(旧唐書)
旧唐書にあるように、百済の捕虜一同は洛陽で皆赦免された。しかし義慈王は間もなく死んでいる(毒殺の説あり)。
蘇定方が帰還するとき(660年9月3日)、部下の劉仁願(リュウジンガン)は唐兵1万を預けられ、武烈王の子(11男)金仁泰の率いる新羅兵7千とともに泗沘城に残留して守った。
また、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置き、王文度(オウブンタク)を熊津都督府の都督に命じた。
同月23日、泗沘は百済兵の残存勢力の急襲に遭い、外柵まで侵入され、辛うじて内柵を防衛する。百済残存勢力の伸張は、武烈王の出陣を促し、王は泗沘南方の柵城を攻撃し、劉仁願らを救援した。
■ 羈縻政策(きび)
中国の伝統的な異民族統治政策である。羈は馬具の面懸(おもがい、轡を固定するために馬の頭につける帯紐)で結局馬の手綱の意味になり、縻は牛の鼻綱のこと。
異民族支配としては、領域化(内地化)、羈縻、冊封の順に従属の度合いが強い。
羈縻では自治を認めるが国王が置かれず、都護府を設置し監督する。都督には現地の旧王・族長などを任命した。
冊封では、中国が周辺諸国と形式上の君臣関係を結び、朝貢した首長に官職を与え、その統治を承認する。
■ 659年の遣唐使
(斉明紀に引用された『伊吉博徳書』の記事による)
斉明5年(659)7月3日坂合部石布を大使、津守吉祥を副使とした遣唐使2隻の船が難波から出航した。両船は江南路をとったが、坂合部石布の船は遭難し、大使は漂着した島で島人に殺された。一方、津守吉祥副使の船は無事唐に着いた。
高宗との謁見を許され、他の献上品と共に蝦夷の男女2人を献上した。皇帝は蝦夷に興味をもち、いろいろ質問した。(この蝦夷は前年阿倍比羅夫の北方遠征時に連れ還ったもの。倭が異民族を包含する大国であることを誇示する小中華思想の現れである)
その後、唐から「わが国は来年、海東(韓半島)の政(戦争)をするので(機密保持のため)帰国を禁じる」と命令され、使節団は個別に隔離幽閉された(斉明紀5年条)。
翌年(660)百済が滅亡すると、9月にようやく使節団は帰国を許された。
洛陽で合同した倭の使節団は、11月1日(冬至)捕虜になっていた義慈王・太子隆ら王子13人・大佐平など37人、合わせて50人が唐の朝堂に送られたのを目撃した(?)。
(鈴木治1972『白村江』には、「みかけた」とあるが、斉明紀に目撃記事はない。伝聞かもしれない)