25-1
    図1 白馬江 (ロッテホテルマガジンより)
     (対岸は扶蘇山城、船着き場の上が落花岩)
 
              【 百済の滅亡 】

【 唐羅同盟 】
 640年代の唐および韓半島三国の情勢は本シリーズ(22)皇極で少し述べた。
   
 新羅は法興王(514-540)代ですでに征服王朝の性格を現していたが、次の新興王代(540-576)は新羅の征服王朝の全盛期であった。この王の時代に領土は東北の咸鏡南道(平壌の東北)・京畿道(ソウル周囲)から南は伽耶を含む最大の版図となっていた。
しかし、642年の高句麗・百済による党項の攻撃や、百済の伽耶侵入の打撃を受けていた。
25-2
  図2    576年頃の韓半島   (百済Wikipediaより)

 650年代に入っても、新羅対高句麗・百済の敵対関係が続いていた。
孤立した新羅は唐を頼みとした政策を進めた。王族の金春秋は648年唐に派遣され太宗に厚遇され、支援を得ることに成功した(唐羅同盟)。太宗にしてみれば、高句麗征伐の遠交近攻策であっただろう。
(金春秋は書紀では647年に質として来倭しているが、1年足らずで帰国していたのか。また実際には来倭していなかったとする説あり)
金春秋は唐から帰国時、三男の金文王を質として残した。650年には新羅独自の年号を廃し、唐の年号を用い、また孝徳紀2年(651)条に新羅使者が唐服を着て筑紫に来たとある。(新羅の唐化政策
 655年1月新羅は高句麗・百済連合軍に侵攻され、北部33城を奪われた。このとき金春秋は真徳女王を継ぎ武烈王(在位654-661年)になっていた。救援を求められた唐は3月に程名振・蘇定方を遣わし高句麗を撃った。
25-3
              図3 百済滅亡要図

【 唐の百済出兵 】
 659年4月またもや百済が新羅の辺境を頻繁に犯しだした。武烈は唐に救援を請願した。
しかし、半年経っても唐の動きはない。
新羅本紀は、「武烈王が憂鬱な顔をして座っていると、突然昔の寵臣二人が現れた。「私どもはもう骨になっていますが、報国の心は変わりません。昨日、唐の様子を見に行きますと皇帝が蘇定方に来年5月百済を征伐するよう命じたことを知りました。そこで早速ご報告に参った次第です」と言うなり消えた。王は大いに驚き、両人の子孫を褒賞し、両人の冥福のために寺を建てた」と記す。

 唐としては、長年高句麗を攻撃しながら成功しなかったため、矛先を百済に換えようと決断したしたようである。新羅の出兵要請に応えた形で659年冬から百済征討の準備を始めた。この頃まで高宗を輔政していた長孫無忌(高宗の伯父、外征に消極的?)に替わって皇后の武則天(則天武后)が実権を得たのが影響したのかもしれない。
 660年3月蘇定方を大将軍とする13万人の唐水陸軍が山東半島から黄海を渡り韓半島に向かった。高宗は当時唐国にいた金仁問(武烈王の二男)をその副将軍にしている。
5月26日新羅の武烈王は金庾信らと金城を出発し、6月18日に南川(利川)に着いた。
そして、法敏太子(後の文武王)を徳物島に遣わし100艘の兵船を準備して6月21日の定方軍到着を出迎えさせた(徳物島は牙山湾沖の島)。定方は「我らはここから南下して百済の熊津江口(錦江河口)に向かう。7月10日新羅軍とその地で合流し、連合して百済王城(泗沘城)を落とそう」と言った。
定方は唐軍を二手に分け、定方が率いる陸軍は牙山湾の南岸・唐津に上陸して陸路南下し、水軍は法敏が贈った船で南下し水陸共に熊津江口に向かった。
25-4
    図4 韓国映画『黄山ヶ原』

【 黄山伐の戦い 】
 百済はその頃、ようやく唐の襲来を知ったらしい。青天の霹靂だった。
かって義慈王の享楽ぶりを諫死した重臣・成忠は生前、泗沘を外敵から守るには陸路では
炭峴、水路では白江が重要であり、ここに防御体制を敷くべきであると説いていたが、群臣の同意がなく採用されていなかった。 (白江は現在の錦江の河口、即ち白村江の戦いの場付近に比定されるが、炭峴については諸説あり確定していない)
 金庾信が率いる5万の新羅軍は既に要地の炭峴を通過し熊津江口に向け進軍していた。
百済の階伯(ケベク)将軍は僅か5千人の手勢で黄山伐(伐は平野の意味の当て字)に出向き、新羅軍を阻止せんとした。7月9日庾信軍が黄山ヶ原に入ると、階伯は3箇所の山城に兵士を配して待ち構えていた。虞信等は、軍を三つに分け、四度戦ったが敗れ、兵は疲弊した。
このとき、新羅将軍欽純の息子が単騎で敵陣に突入し力戦の上戦死した。これを見た新羅軍は奮起し、遂に百済軍を殲滅した。
  ・黄山伐:黄山は現在、連山と呼ばれる。泗沘(現在は扶余)の東南にある。(図3)
      『黄山ヶ原』は2003年公開した韓国映画の日本題名。メガヒットしたと。

【 熊津江口 】錦江河口 
 一方、蘇定方の唐陸軍は予定どおり、7月10日熊津江口に到着した。てっきり新羅軍が迎えると思っていたのに、そこに見たものは百済兵であった。定方は東岸に登り、山に陣を設け戦っていると、唐水軍が相次いで到着したので、百済軍は死者数千人を出して四散した。
やがて、金庾信の新羅軍が到着した。蘇定方は約束の7月10日に新羅が遅れたことで激怒し、新羅の督軍(軍政長官)金文穎を斬ろうとした。そこで金庾信は軍門に鉞(王から授与されたマサカリ)を杖に立ちはだかり大音声で叫んだ、「大将軍(定方)は黄山の激戦のことを見もしないで、期日に遅れたと言って罰しようとするのか。吾らは罪なくして恥辱を受けるわけにはいかない。こうなれば、先に唐軍と決戦し、それから百済を殲滅する」。金庾信は怒髪天を衝き、腰の剣が鞘から踊り出さんばかりだった。庾信の権幕に、新羅の離反を畏れた蘇定方の部下の取り成しで罪を許された。(金庾信の大芝居か)  
25-5
      図5 扶余(泗沘)文化観光地図 (中埜和男さま【世界の旅】より) 
         (本シリーズ(17)欽明にも同工の図あり)
                 
【 泗沘落城 】 
 斉明紀6年(660)是歳条に童謡(わざうた)が記載されている。
  摩比邏矩都能倶例豆例於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝美和陀騰能理歌美
  烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝   
暗号のように難解であり、多くの説がある。江戸時代の橘守部によると、
「真開く 呉図礼の津の 尾の上田を 雁々が食う。 御狩の 尾の上田を 雁々が食う」
で、(折角開墾した山の上の田(百済)を雁(唐)がきて食うぞ)の意味だという。

 さて唐羅軍は錦江を遡り、泗沘を目指して進軍した。水軍は上げ汐に乗って舳艫を連ねて遡上した。定方ら陸軍は岸上を進撃した。王城から20里のところで百済軍が待ち構えていたが撃破した。
7月12日、唐羅軍は泗沘を包囲。百済王族の投降希望者が多数出たが、唐側は拒否。
7月13日、義慈王は王子孝とともに熊津城に逃亡太子隆は降伏し、泗沘は落城した。
     新羅の王子・法敏(文武王)はかって妹を虐殺された恨みから、跪かせた太子
     隆の顔に唾を吐きかけた(新羅本紀)。(金春秋は娘を大耶城城主に嫁してい
     たが、義慈王が642年新羅を侵犯したとき大耶城城主夫妻を斬首した)。
          また有名な落花岩伝説(宮女三千人が崖上の岩から白馬江に身を投げた)はこ
     のときのことになるか。
7月18日、義慈王が降伏して、百済は滅亡した。
8月2日、定方は戦勝の大宴会を催し、義慈王以下の諸王子を堂下に座らせ、義慈王に酒
     を注がせたりしたので、百済の旧臣で泣かない者はいなかったと。(新羅本紀)
    また義慈王は面縛されている。(『旧唐書』顯慶5年(660)8月条)
9月3日、蘇定方は唐に凱旋する。
    定方は戦勝記念として、泗沘の中央にある定林寺に 大唐平百済塔を建てていった。

25-6
  図6 落花岩から白馬江を望む  (錦江Wikipedia:Frankhöffnerさま作品)
       
25-7
   図7 扶余・皐蘭寺の壁画   (浅野保夫さま 京機短信より)

25-8
        図8  扶余定林寺址五層石塔    (定林寺址Wikipedia:Straitgateさま作品)

25-9
  図9  大唐平百済碑銘 拓本    (東京国立博物館の画像より)

    ■扶余定林寺址五層石塔
    初層塔身四面に,蘇定方が撰文した大唐平百済碑銘が刻まれている。
    2015年世界遺産の文化遺産に登録された。 図9はその碑銘冒頭文の拓本
 
 蘇定方は帰国時、百済の義慈王などを唐都に連行した。
    ・定方以王及太子孝、王子泰、隆、演及大臣、將士八十八人、百姓一萬二千八百七人,
   送京師。(百済本紀)
    ・虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送于京師,上責而宥之。(旧唐書)
 旧唐書にあるように、百済の捕虜一同は洛陽で皆赦免された。しかし義慈王は間もなく死んでいる(毒殺の説あり)。
                                    
 蘇定方が帰還するとき(660年9月3日)、部下の劉仁願(リュウジンガン)は唐兵1万を預けられ、武烈王の子(11男)金仁泰の率いる新羅兵7千とともに泗沘城に残留して守った。
また、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置き、王文度(オウブンタク)を熊津都督府の都督に命じた。
同月23日、泗沘は百済兵の残存勢力の急襲に遭い、外柵まで侵入され、辛うじて内柵を防衛する。百済残存勢力の伸張は、武烈王の出陣を促し、王は泗沘南方の柵城を攻撃し、劉仁願らを救援した。
 
■  羈縻政策(きび)
 中国の伝統的な異民族統治政策である。羈は馬具の面懸(おもがい、轡を固定するために馬の頭につける帯紐)で結局馬の手綱の意味になり、縻は牛の鼻綱のこと。
異民族支配としては、領域化(内地化)、羈縻、冊封の順に従属の度合いが強い。
羈縻では自治を認めるが国王が置かれず、都護府を設置し監督する。都督には現地の旧王・族長などを任命した。
冊封では、中国が周辺諸国と形式上の君臣関係を結び、朝貢した首長に官職を与え、その統治を承認する。

■ 659年の遣唐使
          (斉明紀に引用された『伊吉博徳書』の記事による)
 斉明5年(659)7月3日坂合部石布を大使、津守吉祥を副使とした遣唐使2隻の船が難波から出航した。両船は江南路をとったが、坂合部石布の船は遭難し、大使は漂着した島で島人に殺された。一方、津守吉祥副使の船は無事唐に着いた。
高宗との謁見を許され、他の献上品と共に蝦夷の男女2人を献上した。皇帝は蝦夷に興味をもち、いろいろ質問した。(この蝦夷は前年阿倍比羅夫の北方遠征時に連れ還ったもの。倭が異民族を包含する大国であることを誇示する小中華思想の現れである)
 その後、唐から「わが国は来年、海東(韓半島)の政(戦争)をするので(機密保持のため)帰国を禁じる」と命令され、使節団は個別に隔離幽閉された(斉明紀5年条)。
 翌年(660)百済が滅亡すると、9月にようやく使節団は帰国を許された。
洛陽で合同した倭の使節団は、11月1日(冬至)捕虜になっていた義慈王・太子隆ら王子13人・大佐平など37人、合わせて50人が唐の朝堂に送られたのを目撃した(?)。
(鈴木治1972『白村江』には、「みかけた」とあるが、斉明紀に目撃記事はない。伝聞かもしれない)

24-1
 図1 酒船石遺跡(NHKブラタモリ2020.04.18より。右は相原嘉之奈良大准教授)

                     【 斉明天皇の時代 】

 孝徳天皇は白雉5年(654)10月に崩御したが、中大兄皇子は皇太子でありながら継承せず、翌年正月(655)皇祖母尊(元の皇極天皇、62歳)が飛鳥板葺宮で再び即位(重祚)した。斉明天皇である。
中大兄は、石川麻呂横死事件、孝徳との不和、飛鳥への還都によって生じた宮廷内外の不穏な空気を感じて、登極をまた見送ったのだろうか。

 その斉明紀元年5月条に、奇怪な文がある。
「青い油笠(雨具)をかぶった唐人風の者が空を駆ける龍に乗って現れた。葛城山を越え、生駒山を越えた。正午頃、住吉の岡に現れ西方に飛び去った」
  (『扶桑略記』はこの文の最後に、「時人言蘇我豊浦大臣之霊也」を付け加えている。
   なお、『住吉大社神代記』に類似の文がある)
斉明紀7年(661)斉明天皇が朝倉宮(太宰府の南東)で崩御した条にも、
「大笠をかぶった鬼が、斉明天皇の喪の儀式を遠くから見ていた。世人は皆怪しんだ」
とある。  
  (『扶桑略記』はこの文には追記していないが、少し前の記事「多くの臣が病死した」
   に、「時人云。豊浦大臣霊魂之所為也」と追記している)
 豊浦大臣とは蘇我蝦夷のことである。唐人風の者が越えていった葛城は蘇我氏の本貫地であり、生駒山西麓には河内国河内郡豊浦郷(枚岡神社の近く)がある。
蝦夷を豊浦大臣という理由は蝦夷の邸宅が飛鳥近くの豊浦にあったからとされているが、蝦夷の母・太媛(物部守屋の妹)の実家が上記の河内郡豊浦郷であり、蝦夷はそこで養育されたため豊浦大臣の豊浦は養育地の名に由来するとの説がある。(門脇禎二1977)。
 扶桑略記は唐人風の者を蝦夷とみているが、入鹿とみる説も多い。更に皇極との男女関係を云々する説まである。
アカデミックの学者たちはこれらの文に言及しないようにしているようだ。
書紀の編者たちがこれらの文を挿入した目的は何だったのだろう。

24-2
  図2 飛鳥 絵地図(飛鳥歴史公園HPより)
24-3
   図3 宮東山(酒船石遺跡、西南からみる)

【 狂心渠 】たぶれこころのみぞ 
 斉明元年10月小墾田に瓦葺きの宮を造る計画がなされたが、切り出された材木が朽ちるなどで中止された。それどころか、同年冬に板葺宮に火災が起こり、急遽川原宮(後の川原寺の地)に移らねばならなかった。動員に反対するものたちの放火かもしれない。
翌斉明2年(656)、飛鳥の岡本に宮地を定めて新宮を建て、後飛鳥岡本宮と名づけた。
  (現在「飛鳥宮跡」と称する地(本シリーズ(21)舒明の図5にある②)は発掘調査に
   より、飛鳥岡本宮、飛鳥板葺宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮の4宮のの遺構であ
   るとされる)
 朝廷は多武峰に周りを取り巻くような垣を造り、嶺の上に両槻宮(ふたつきのみや)という高殿を建てた。また吉野にも離宮(吉野宮、後に大海人皇子が隠遁)も建てた。
また、香具山の西から石上山まで渠(みぞ、水路)を掘り、200隻の舟で石上山の石材を運び、 宮の東の山に積んで石垣とした。
 書紀には、当時の人は「狂心渠だ。3万人の人夫を浪費して運河を掘り、7万人の人夫を浪費して石垣を造った」とか、「石の山丘を造ったが、造った端から壊れるだろう」と非難した、とある。
 
 この狂心渠であるが、近年の研究によって多くのことが判明してきている。
書紀の石上山は現在の天理市石上神宮付近の豊田山のことで、ここに産出する黄色砂岩(天理砂岩)が飛鳥に運ばれ、酒船石遺跡の石垣に使用されている。
水路について、書紀は香具山の西から石上山までと記すが、相原嘉之氏(奈良新聞2022.05.25)によれば、宮東山(酒船石遺跡)から豊田山までの水路であり、宮東山-中の川-米川-(不明)-豊田山の経路らしい。NHKブラタモリ「飛鳥」2020.4.18では相原氏がこの水路の痕跡地で説明されている。
 酒船石のある丘陵は、わざわざ山を削りその後、版築土で積み上げた人工の丘であり、四重の石垣で取り囲み、周囲総延長は800mである。また石垣に天理砂岩が使用されているので、書紀の「宮東山」に 対応する。飛鳥宮から見える西側石垣の表面は磨き上げられていて、防御壁というよりは装飾的建造物に見えると。
24-4
     図4 酒船石

 酒船石の用途については江戸時代から多くの説がある。名称につられて酒に関する説が多いが首肯できるものはない。この大石は白鳳地震(684年、南海トラフ、震源地:室戸岬沖、マグニチュード8.3、天武紀13年に土佐等の被災記事あり)により西に傾いている。更に後世、高取城築城時の石材にでも利用したのか、両側がかなり欠損している。(高取城は壺坂観音の近くにある。私はその城壁に石地蔵がむき出しで使用されているのを見た)
明日香村教委文化財課の復元案では石の中央に3つ、両側に各3つの窪みの存在を想定している(相原嘉之案?)。
相原嘉之氏は酒船石に笹船を浮かべ、いずれの窪みに入るかによる占いや祭祀を行ったのではないかと考えられている。(笹舟=ささふね>酒船)であるから、可能性は高そうだ。

24-5
     図5 亀形石造物(「邪馬台国大研究」より)
 
 宮東山の北側の山裾に亀形石造物があり、天皇祭祀の遺構とされる。復元展示は天武・持統朝のもので、斉明天皇の時代のものはその下層にあるとのこと。
 現在、飛鳥東方の丘陵に下記2系統の遺構が検出されている。  
一つは酒船石遺跡北東の尾根稜線上の15基の掘立柱塀であり、もう一つは八釣地区の尾根稜線上の16基の掘立柱塀である。両者は南東から北西へ延びる尾根上に位置し、ほぼ平行している。軍事的遺跡と考えられている。
書紀の「於田身嶺冠以周垣」(多武峰に周りを取り巻くような垣を造った)に一致するのではなかろうか。私は白村江敗戦後に各地で築かれた朝鮮式古代山城と同じ性格をもっているものと理解している。また、宮東山も緊急時には出城として使う目論見があったのではと考える。
両槻宮については、現在のところ不明である。
なお、飛鳥周辺にはヒブリ(火振り)・フグリの地名がかなりあり、飛鳥京防衛の(とぶひ、のろし)を伝達する基地と考えられている。
 以上のような土木工事などには莫大な労働力(人夫の動員)と物資が必要だが、大化の新税制によって王権が拡大した成果であろう。63歳の斉明天皇が「狂心」と非難の的になっているようだが、祭祀関係以外の首都防御システム構築は中大兄皇子の主導によるものと考えられる。
前章で還都の原因は唐羅同盟による半島情勢の緊迫によると述べたが、一般の人々には理解されにくい問題のため譏られたのだろう。

【 有間皇子の変 】生年:舒明12年(640)
 有間皇子の父は故孝徳天皇、母は阿倍左大臣の娘・小足媛である。
蘇我入鹿・古人大兄・石川麻呂が大兄皇中子によって次々と粛清されたことを聞き知っていたので、父・孝徳の死後、自分が同じ立場になっていることを認識していた。
そこで狂人のふりをし、病を治すためとの口実で紀伊の白浜温泉に行ったりしていた。
  斉明天皇は甥・有間から聞いた南紀の話に惹かれたのか、斉明4年(658)10月に中大兄皇子と白浜温泉に行幸した。飛鳥の留守居役は蘇我赤兄臣であった。
 翌11月赤兄は有間皇子(19歳)に話しかけ、あいつぐ大土木工事を朝廷の失政として語った。有間は赤兄が同心であることを知って喜び、赤兄邸を訪れて謀反の相談をした。
(これは書紀に書かれた経緯だが、信用しがたい。赤兄は石川麻呂を密告した日向の兄であり、有間の腹心の部下などが知らない筈はない)
その夜、赤兄は有間皇子らを捕らえて白浜の中大兄皇子のもとに送った。 
中大兄は有間に謀反の理由を質した。有間皇子は「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えたが、二日後和歌山県海南市藤白で絞首された。(中大兄皇子の粛清パターン)
 万葉集に有間皇子の作歌として以下の2首が載せられている。(真作かは不明)
       磐白の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む  (2/141)
       家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (2/142)

24-6
 図6 須弥山像と石人像のレプリカ(飛鳥歴史資料館、「休日はデジカメ」さまのブログより)   

【 石神遺跡と水落遺跡 】
石神遺跡
 斉明紀には3年7月条に「須弥山像を飛鳥寺の西に造り、トカラ人を饗宴した」
5年3月条に「甘樫丘の東の川辺に須弥山を造り、蝦夷を饗宴した」
6年5月条に「石上池のほとりに須弥山を造り、粛慎47人を饗宴した」 
とある。
    ・須弥山(じゅみせん):仏教思想において世界の中心にそびえる大山。
    ・粛慎(みしはせ):北方の原住民(例えば北海道)
 石神遺跡は飛鳥寺の北西にあり、須弥山石と石人像が出土している。また迎賓館や饗宴施設と推定される遺構も検出されている。政治儀式・服属儀礼が行われたであろう。
斉明朝の石神遺跡は外交施設であったとする見解が有力である(吉川真司2011)。

24-7
            図7 水落遺跡
水落遺跡(みずおち)
 石神遺跡に南接して水落遺跡がある。楼状建物跡と銅製の導水管など漏刻(水時計)に対応する施設跡が検出された。朝廷政治に不可欠な時刻報知のシステムは、斉明朝の飛鳥で始まった。
 斉明紀6年5月条に「皇太子、初めて漏剋を造る。民をして時を知らしむ」
 天智紀10年4月条に「漏剋を新しき台に置く。初めて候時(とき)を打つ。鐘鼓を動かす。始めて漏剋を用いる。この漏剋は、天皇(天智)の皇太子にまします時に、始めてみづから製造(つく)れる所なりと、云々」とある。
  
【 阿倍比羅夫の北方遠征 】
 書紀によれば、大化3年(647)に渟足柵(ぬたりのさく、新潟市付近)、大化4年に磐舟柵(新潟県村上市岩船)を設置して蝦夷に備え、そこに柵戸(きのへ、柵を守るために移住させられた民)を置いている。磐舟柵には越・信濃から人民が移されたという。
 斉明朝でも越国守阿倍比羅夫が北方に遠征した。
斉明紀には7箇所に関連記事があるが、書紀編纂時に重複や混乱があり、少なくとも2度にわたっての、大規模な北方遠征が行われたとみられる(篠川賢2013)。
 遠征の目的は北方に領土を拡大するためでもあるが、倭人と異なる民族としての「蝦夷」が倭王に服属していることを内外に示す目的も考えられる(中華思想)。また、当時の国際情勢から高句麗への北方航路の開拓を目指したのではないかの説もある。

23-1
 図1 難波宮跡公園(左方は大阪城)(難波宮Wikipedia、Saigen Jiroさま作品)

                       【 孝徳天皇の時代 】
【 孝徳の擁立 】
 乙巳の変の2日後(皇極4年6月14日、645)、皇極天皇は息子の中大兄皇子に譲位したいと言われた。中大兄は中臣鎌子に相談した。鎌足は「殿下にとって古人大兄は兄(異母兄)であり、軽皇子は叔父になる。殿下が皇位を継承したら、世人の反感を買うかもしれない。しばらく叔父を立てたほうがよい」と応えた。中大兄は納得した。
その結果、皇極天皇の同母弟である軽皇子を推すことになった。ところが、軽皇子は再三固辞し、年長の古人大兄に譲ろうとした。
 しかし後ろ楯の蘇我父子を失った古人大兄はこれを断り、更に自分の身の安全を考えて出家し、家族とともに吉野宮に隠遁した。やむなく軽皇子は皇位を継承することになる。

■以上は書紀にある筋書きだが、乙巳の変の経過を含めあまり信用できない。
河合敦氏によれば、高校教科書『詳説日本史B』山川出版社 2018年には、
「王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿部内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、中臣鎌足を内大臣、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、大王宮を飛鳥から難波に移して政治改革を進めた」、「孝徳天皇時代の諸改革は、大化改新といわれる」と記され、孝徳天皇が主役であるような書き方をしている、と。
 高校教科書は、その時代の専門家の共通認識が反映されていると見て良い。
新政権の主導者は、近年の反対意見にいうとおり、孝徳と見るべきであろう。篠川賢2013)

【 孝徳天皇 】
   諱:軽   誕生596-崩御654    即位時 50歳
   第36代 大化(元年(645)- 5年(649)、白雉(元年(650)-5年(654))
   父:茅渟王(敏達天皇の孫)、母:吉備姫王(欽明天皇の孫)、同母姉:皇極天皇
   皇后:間人皇女(ハシヒト、父:舒明、母:皇極、同母兄:中大兄)
        妃:小足媛(阿倍内麻呂の娘)、乳娘(蘇我石川麻呂の娘)
   子:有馬皇子(母:小足媛)

 孝徳は即位すると、皇極前天皇を皇祖母尊、中大兄を皇太子とした。
大臣を初めて分け、左大臣を阿倍内麻呂、右大臣を蘇我石川麻呂とし、中臣鎌子を内臣とした。
また、僧旻と高向史玄理を国博士とし、新政府の顧問にした。(南淵請安は既に死去していたか)
 孝徳は日本史上初めての元号を立て皇極4年を改めて大化元年(645)とした。(異説あり)
同年6月19日(乙巳の変の7日後)大槻の樹下(飛鳥寺の西の槻?)で皇祖母尊・皇太子と共に群臣を集めて忠誠を誓わせた。

【 古人大兄皇子を誅殺 】 
 大化元年9月に吉備笠垂という男が申し出た。「古人大兄は私ども5人らと謀反を企てています。私もその一員ですが自首してきました」。そこで中大兄は40人の兵を出し、吉野の古人大兄を誅殺した。
 ■笠垂は他の共謀者4人の名を挙げているが、1名を除く4名は後の中大兄の体制下で役職を与えられ活躍している。諸説あるが、私は古人大兄に謀反の動きはなく、でっち上げの謀殺とみる。中大兄・中臣鎌子はこれからも同様のパターンで政敵または懸念のある人を次々と殺していく。  

23-2
 図2 日下雅義『古代景観の復原』中央公論社より ブログの制約のため横にした

【 難波長柄豊碕宮に遷都 】図1~図4
 新政権は大規模の宮を摂津国難波(現在の大阪城地域)に営造することを構想し、大化元年(654)12月まず難波の大郡宮(元外国使節を迎える迎賓館か)に遷った。難波長柄豊碕宮の造営は大化2年3月頃から開始し、白雉3年(652)9月に完成した。
すべて掘立柱建物からなり、草葺屋根であった。書紀には「その宮殿の有様は、例えようのない程の(立派な)ものであった」と記す。
 孝徳天皇崩御(654)の後、斉明天皇は飛鳥板葺宮で即位した。難波長柄豊碕宮は皇居ではなくなったが、何らかの政府機関として存続していたのだろう。
天武12年(683)12月、天武は複都制の詔を発し、難波長柄豊碕宮を再使用することになったが、朱鳥元年(686)正月、大蔵省に失火し宮室も全焼した。
僅か34年の命であった。

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 図3 難波長柄豊碕宮 模型 Wikipedia  Wikiwikiyarouさま作品
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   図4 難波長柄豊碕宮 内裏模型  Wikipedia  Wikiwikiyarouさま作品

【 大化の改新 】
 「改新詔」が大化2年(646)正月1日に発せられた。
第一条:公地公民制
 王族、氏族の私有する子代・屯倉、部曲・田荘を廃し、かわりに食封・布帛を賜与する。
第二条:行政・軍事・交通制度の整備
第三条:戸籍・計帳・班田収授法の作成
第四条:新税制の施行
 書紀に掲載された「改新詔」については多くの見解がある。
その一つの、「「原詔」なるものは存在しなかったが、「改新詔」の内容には、当時の政策とみてよいものも含まれる」の見方が妥当ではないか(篠川賢2013)。
 例えば有名な「郡評論争」では、「改新詔」にある「郡」の名称が当時はなくて評であったことが木簡で証明されている。
 大化の改新の内容の詳述は本シリーズの目的から外れるので省略する。

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    図5 蘇我石川麻呂系図 (古寺巡礼さま作品を改変)

 【 蘇我石川麻呂事件 】 
 大化5年(649)3月、孝徳朝の左大臣・阿倍内麻呂が病死した。
その7日後に、大事件が始まる。
 右大臣の異母弟・蘇我臣日向(ヒムカ)が「兄の石川麻呂は皇太子が海辺で遊ばれる時を狙って、殺害しようと企んでいます」と中大兄に密告したのである。その報告を受けた孝徳天皇は難波の右大臣邸に使者を出し、事の虚実を問い質した。石川麻呂は参向して申し開きをしたいと使者に伝えた。
ところが、天皇は対面の願いを許可せず、再度使者を立て詳らかにしようととしたが、右大臣はまた前のように答えた。天皇は兵を出し、難波の右大臣邸を取り囲もうとした。
 石川麻呂は察知して2人の子らを連れて脱出し、本拠地である大和の山田に向かった。その頃右大臣の長子・興志(コゴシ)は山田寺の造営中であったが、事件を伝え聞き今来(明日香村檜前付近)まで迎え、山田寺に入った。興志は徹底抗戦を説いたが、石川麻呂はもとの同志中大兄・鎌足はもとより、天皇からも見捨てられたことを考え、興志も含め一家8人が山田寺で自害した。
          (山田寺の位置は本シリーズ(21)舒明の図5にある⑤山田道の付近)
難波から差し向けられた軍勢は山田寺を包囲し、石川麻呂の死骸を刺し、首を刎ねた。
更に石川麻呂の関係者を捕らえ、14人を斬首、9人を絞首し、15人を流刑にした。
 事件が落着した後、石川麻呂の持ち物を調べた結果、石川麻呂の無実を知った中大兄
は後悔し、悲嘆にくれた。そして密告者の蘇我日向を筑紫太宰帥に任じた。
世間は「隠流」(しのびながし、左遷で流されたようだが実は栄転)と言った。
中大兄の妃遠智娘は父・石川麻呂の横死に心を痛め死亡した。
4月には、巨勢徳陀・大伴長徳を左右大臣とした。

 以上が書紀に沿った顛末であるが、潤色が多いとされる。
・ 改新の方針について孝徳や中大兄と意見が合わず、左大臣の死を契機として、右大臣が粛清されたのではないか(吉川真司2011)。
・ 事件の原因は中大兄と石川麻呂の対立に求めるのが妥当だが、二人の個人的な対立ではない。この事件の大きな特徴は、麻呂に連座した人々の数の多さであり、しかも田口臣筑紫らマヘツキミ層も含まれている点である。この事件の原因・背景にはマヘツキミ層を巻き込んだ広い範囲で、政策上の対立があったことが推定される(篠川賢2013)。

■ 遠智娘(オチノイラツメ、造媛とも、石川麻呂の娘)
   中大兄の妃であり、3子を産む。
        大田皇女(天武天皇の妃、大来皇女・大津皇子の母)
   鸕野皇女(天武天皇の皇后、後に持統天皇、草壁皇子の母)
        建皇子(8歳で夭折、斉明天皇の寵愛を受けていた)
■ 姪娘(メイノイラツメ、石川麻呂の娘、遠智娘の妹)
    中大兄の妃であり、2女を産む。
           御名部皇女(高市皇子の正妃、長屋王の母)
   阿閇皇女(後の元明天皇、草壁皇子の妃)
 姉の遠智娘の死後、姪の大田皇女・鸕野皇女も共に育てたという。

【 遣唐使の再開 】
 唐では644年の高句麗出兵に失敗した太宗は649年に死去し、同年に高宗が皇帝に即位した。
百済は651年に朝貢したが、高宗は百済が新羅から奪取していた加耶諸国を新羅に返還することを強要した。このように唐帝国の威圧はまた朝鮮半島に及んできた。
これを受けて652年には、新羅・高句麗・百済は相次いで長安京に遣使した。
 倭朝廷もこれら情報から、孤立の危険から脱するために、白雉4年(653)5月に遣唐使再開に踏み切った。前回の舒明2年(630)から23年ぶりのことであった。
2隻の船に分乗し、第1船121人は北路をとったのか無事唐に到着し高宗に拝謁した。
そして翌年(654)7月に新羅・百済の送使と共に帰還した。
悲惨なのは第2船120人で、なんらかの事情で南島路(薩摩の坊津から出て、南西諸島経由で東シナ海を横断するコース)をとったらしく、出発して1ヶ月余で遭難し殆ど全員が死亡した。生き残った5人は板に捉まり6日間飲まず喰わずで漂流し竹島に漂着して、竹で筏を組み、薩摩の上甑島に辿り着いた。
(遭難の原因は、書紀に「合船没死」と記されている。船の衝突沈没の意味のようだ。一方第1船は白雉5年7月条の第1船乗員帰国記事で大使・吉士長丹に「西海使」とあり、岩波本の脚注には「第1組が北路、即ち朝鮮経由なので西海使といったものか」とある)

 白雉5年(654)2月、高向玄理を押使(大使より高位)とし、再び遣唐使を出した。やはり二船に分乗させている。新羅道(北路)を取り、数ヶ月を経て山東半島から長安に入り高宗に拝謁した。担当役人から倭国の地理、国の成り立ちを詳しく問われ、遣使たちはそれに答えた。『旧唐書』にこれに対応した記事がある。「永徽五年十二月癸丑,倭國獻琥珀、碼瑙,琥珀大如斗,碼瑙大如五斗器」(654年12月倭国が大きなコハク・メノウを献じた)。
なお、孝徳朝で国博士に任じられ外交・内政で活躍した高向玄理はこのあと唐で客死した。応神朝に阿知王と共に渡来した七姓漢人の後裔とされる、

【 飛鳥へ還都 】
 白雉4年(653)中大兄皇子は都を飛鳥の故地に戻すことを提案した。しかし孝徳天皇が応じなかったので、その9月に母の皇極前帝、妹の間人皇后、皇弟(大海人皇子)らを率いて、飛鳥に向かった。「このとき公卿大夫・百官の人等は皆従って遷る」と書紀は記す。中大兄皇子らは飛鳥河辺行宮に入った。(649年石川麻呂事件の際、長子・興志は抗戦のため小墾田宮に焼打ちをかけようと父に提案しているが、石川麻呂は応じなかった。当時、飛鳥では朝廷の最大拠点だったと思われるのに、「小墾田宮」は上記の記事以後『日本書紀』からは消えている。どうなっていたのだろう)

 還都の原因についてもよくわからない。何故皇太子が完成したばかりの新都を捨てて飛鳥に還ったのか。様々な考え方があるが、決定的な説はない。
・外交路線の違い(百済と結ぶか、新羅・唐の関係を重視するか)
・母の皇極の意向
・飛鳥地方に不穏な状況が強まっているのを皇太子が懸念したため。(北山茂夫1968)
 飛鳥の政治諸勢力の間に、改新派の政府への反感が強まっていたとか。
・孝徳は唐との外交を強め、遠交近攻の遠交策で唐の圧迫を打開しようとし、
 中大兄は國土防衛のため攻撃に弱い難波から飛鳥に還都し、防備・武力の強化充実を唱
 えて対立していた。(門脇禎二1977)
・白雉2年(651)に新羅使の唐服着用(648年に成立した唐羅同盟による)を知った中大兄
 は緊迫した東アジア情勢を深刻に受け止め、國土防衛のため宮都を飛鳥に戻そうとした。

【 孝徳の憤死 】
 天皇は新都で置き去りになった。孝徳は帝位を捨て、京都の山崎(秀吉・光秀の天王山の戦いの地)に宮を建て隠棲しようと考えた。

 書紀には、孝徳が間人皇后に次の歌を送ったとある。
 鉗着け 吾が飼う駒は 引き出せず 吾が飼う駒を 人見つらむか
   カナキツケ、アガカフコマハ、ヒキデセズ、アガカフコマヲ、ヒトミツラム力。
  鉗(馬が逃げないように首にはめておく木)をつけて、私が飼っている馬は、厩(う
  まや)から引き出しもせずに、大切に飼っていたのに、どうして他人が見たのだろう。
        (古語の「見る」は「男女が関係を結ぶ」意味もある)
私はこの歌は他人の作であり、書紀編纂時の潤色とみるが、この歌から中大兄と実妹・間人皇后の近親相姦を論じる説もある。
(白雉4年(653)当時、孝徳天皇58歳、中大兄皇太子28歳、間人皇后は年齢不詳であるが、中大兄の実妹であるから天皇とは30歳以上の年齢差がある)

 白雉5年(654)10月孝徳天皇は病臥した。
中大兄皇太子は皇極前帝、間人皇后、皇弟(大海人皇子)、公卿らを率いて難波宮に赴いた。
間もなく天皇は正殿で崩御し(59歳)、南庭に殯がなされた。
同年12月大坂磯長陵に葬られた。(大阪府南河内郡太子町)
このとき、孝徳の皇子・有間は15歳であった。

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