7-1
 図1 チンギス・ハン       チンギス・ハン在世中の諸遠征(チンギス・カンWikipediaより)
                             
7-2
   図2  チンギス・ハン在世中 のモンゴル帝国の拡大(チンギス・カンWikipediaより)

チンギス・ハン(1162-1227)はモンゴル遊牧民の一有力部族に生まれた。
次第に頭角を現し、モンゴル諸部族を一代で統一してモンゴル帝国を建国した(1206年)。
まず南接する西夏を服属させた後、1219年頃までにモンゴル高原西部、女真族の金の領土の大部分を征服した。
更に1223年頃までにホラズム王国など中央アジアを席巻した。
その後南西シベリアから南ロシアをも征服し、モンゴル軍の遠征に協力しなかった西夏を懲罰した。1227年モンゴルへの帰途チンギスは死亡した。

7-3
  図3     チンギス・ハン以後の領土拡大    最大版図    4つの連合国家

チンギス・ハンの死亡後、皇帝はオゴデイ、グユク、モンケと続き、モンゴル帝国はその勢力を東ヨーロッパまで拡大していった。
  東ヨーロッパの征服と服属
    ルーシ:1223年、および1236年-1240年
    モスクワ:1237年から1238年
  中央ヨーロッパを侵掠
    ポーランド侵攻:第1回1240 to 1241、第2回1259–1260、第3回1287–1288
      ハンガリー:モヒの戦い1241年

第5代モンゴル帝国皇帝クビライの死亡(1294年)を契機にして、元を統べる大ハーンを盟主とする緩やかな連合国家に再編された。
それは以下の4つの政権であった。(図3最右)
  東アジアの大元ウルス(元朝)                                   (紫)
  中央アジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)     (濃緑)
  キプチャク草原のジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)     (淡緑))
  西アジアのフレグ・ウルス(イルハン朝)                       (緑)
そしてモンゴル帝国は第17代大ハーンのトグス・テムルの死亡(1388年)により分裂滅亡した。

7-4aカラコルム
   図4a カラコルムの人びと  
7-4b  ウランバートルの人びと
   図4b ウランバートルの人びと

さて、耳垂型の話にもどる。
モンゴル軍はアジアばかりでなく、東ヨーロッパと中央ヨーロッパも蹂躙している。
そこで、ヨーロッパに彼らの遺伝子が伝わった考えるのは当然である。
実際、分子遺伝学のいくつかの報告によれば世界にはチンギス・ハン由来の遺伝子を引き継いでいる人びとが驚くほど多数存在するということである(3200万人という報告もある)。
 
 逸話(『チンギス・カンWikipedia』より)
  • ある日、チンギス・カンは重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。するとチンギスは「違う」と言い、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。(A・ドーソン『モンゴル帝国史』)

一方、当時のモンゴル軍の耳垂型が如何であったかは知る由もない。      
現在のモンゴル国ではモンゴル力士や図4でみるように、J型が多いようだ。
しかしモンゴル軍団はモンゴル人ばかりの編成で無く、服属した国からの出兵も義務づけている。また被征服軍団を先鋒にしてモンゴル軍の温存を図ったりしている。。
元寇の場合でも、漢軍と高句麗軍が参加していた。
そこで当然、滅ぼされた金(女真族)の兵士はヨーロッパ遠征に加えられたであろう。

以上の推論によって、ヨーロッパのV型耳垂起源も満州~中国北部であるとする一源論を提唱しようと考えた。
だがモンゴルのヨーロッパ侵攻は13世紀鎌倉時代であり、いかにも時代が遅すぎる。
だから、この案はボツ。すみません。
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【ロシアとモンゴル】

Scratch a Russian and find a Tartar.  というイディオムがある。
Tartar とはタタール人のことで、おおざっぱに言えば中央アジアのモンゴル人とみてよい。
Tartarはタルタルソース、タルタルステーキのタルタルでもある。
(樺太とユーラシア大陸の間の海峡は戦前は間宮林蔵に因んで間宮海峡と呼ばれていたが、
諸外国ではタタール海峡(英語Tatar Strait)という)

つまり、「ロシア人、一皮剥けばモンゴル人」という意味で、ロシア人を侮蔑(モンゴル人をも侮蔑)した成句である。
ロシア遠征をしたナポレオンの言葉といわれているが不詳。

7-5
 図5 くびき(軛)yoke

ロシアには発祥時代の不幸な歴史がある。
タタールのくびき(軛)(Tataro-Mongol Yoke)」といわれるている。
図5の牛のように、ロシア人がモンゴルに首かせをはめられて服属していたことを指す。

現在の東欧ウクライナの地に、9世紀後半から興った「キエフ大公国」という国があった。
正式な国号は「ルーシ」であり、キエフを首都にしていた。
その住民はロシア人などの祖先であり、ロシア (Russia)はルーシ(Rusʹ) を語源とする。

前述のモンゴルのルーシ侵攻(1223年、および1236年-1240年)によって、ルーシはモンゴルのキプチャク・ハンに支配された。
ルーシには貢納が義務づけられ、軍役を課せられたのみで、実際の統治はルーシの諸侯が行い、モンゴルは諸侯の任命権を持つという緩やかな間接統治だったとされる。
1480年キプチャク・ハンの衰退をみたルーシのモスクワ大公国イヴァン3世はハンからの独立を宣言し、モンゴル支配から脱却した。
この200余年にわたるモンゴルのロシア支配を「タタールのくびき」と呼んでいる。

モンゴルのルーシ抑圧によって、その間ルーシは「西洋と東洋の狭間」になった。
すなわち、ルーシでは東ローマや西欧からの隔離が続き、西洋で起こった大きな政治的・社会的・経済的改革や科学の発展の導入が遅れ、ロシアは西欧から200年分遅れた国になったといわれている。
またルネサンスや宗教改革に影響されることもなく、中産階級の形成も遅れた。

一方、ルーシとモンゴルの支配階級の間では人的・文化的交流が盛んに行われた。
ルーシ諸侯が政略結婚の目的でモンゴル王の娘を息子の嫁にした記録もあり、モンゴルとの混血は多く発生している。
17世紀のロシア貴族に関する調査で19%がタタールほか東洋の血筋であったとする報告もある。

冒頭のScratch a Russian and find a Tartar の真意は次のようなものである。
ロシアという国は文明というコーティングで覆っているが、中身はモンゴルのように原始的な野蛮そのものである。
This saying is attributed to Napoleon I, and means that, underneath the veneer, or coating, of civilisation, is barbarism in all its primitive rudeness.

7-6 Vladimir_Putin_(2020-02-20)
  図6 プーチン (Wikipediaより)

【ネット上の記事から】
「プーチン大統領の目の形と頬はモンゴル・タイプだ、と多くのロシア人が言っている」
「モスクワでは平均50%の人がアルコール分解に関するモンゴロイド系遺伝子を持っている」   

【モンゴル帝国軍の動画】