カテゴリ: 平清盛

 
 
         平清盛 : (完)  目次と系図
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【 目次 】
*   
(1)清盛の出自   
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/52962957.html 
(2)崇徳天皇 ① 叔父子   
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/52986162.html 
(2)崇徳天皇  ② 保元の乱・前夜    
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53011242.html 
(2)崇徳上皇 ③ 保元の乱   
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53022303.html 
(2)崇徳上皇 ④ 日本国の大魔縁    
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53033411.html 
(2)崇徳上皇 ⑤ 怨霊と鎮魂    
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53046459.html 
(3)院政期の男色  
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53077472.html 
(4)平治の乱 ①九日事件
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53079006.html 
(4)平治の乱 ②二十五・二十六日事件 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53085891.html 
(4)平治の乱 ③二十五・二十六日事件その後
              
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53107080.html 
(4)平治の乱 ④その不可解な原因 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53127768.html 
(4)平治の乱 ⑤河内祥輔氏の見解  
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53141926.html 
(5)後白河と二条・父子の確執 ①二代の后
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53156083.html
(5)後白河と二条・父子の確執 ②清盛の「アナタコナタ」
             
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53175169.html 
(6)NHK大河ドラマ  『 平清盛 』① 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53179667.html
(6)NHK大河ドラマ 『 平清盛 』②王家
             
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53282358.html 
(7)厳島神社 ①宗像三女神 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53299375.html 
(7)厳島神社 ②清盛の信仰  
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53318564.html 
(7)厳島神社 ③『平家物語』から 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53334233.html
(8)平相国     http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53352645.html
(9)清盛の発病と福原退隠 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53369250.html 
(10)強訴 その1   
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53387322.html 
(10)強訴 その2 嘉応の強訴
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53402925.html
(11)父太郎・母太郎   
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53418037.html
(12)殿下乗合  http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53433179.html 
(13)日宋貿易  
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53450122.html 
(14)徳子 入内
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53468260.html 
(15)建春門院 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53484137.html 
(16)安元の政変 ①安元の強訴  
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53502765.html 
(17)源頼朝 ①伊東祐親  
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53516035.html
(18)安元の政変 ②安元の大火  http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53538477.html 
(19)源頼朝 ②北条政子  
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53565333.html 
(20)安元の政変 ③第二局面 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53594585.html 
(21)安元の政変 ④第三局面(鹿ケ谷事件)
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53608983.html 
(22)安元の政変 ⑤「鹿ケ谷事件」ををめぐる諸説
               
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53624042.html 
(23)安徳誕生① 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53632652.html 
(24)安徳誕生 ②一口メモ 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53633277.html 
(25)治承三年の政変 ①その要因
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53656830.html
(26)治承三年の政変 ②クーデター勃発 http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53675276.html 
(27)以仁王の挙兵 ①    http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53691782.html 
(28)以仁王の挙兵 ②   
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53708259.html 
(29)福原遷都           
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53727151.html 
(30)源頼朝 ③挙兵前       
http://taptior.livedoor.blog/archives/cat_41063.html?p=2 
(31)源頼朝 ④挙兵          http://taptior.livedoor.blog/archives/cat_41063.html?p=2 
(32)源頼朝 ⑤石橋山         http://taptior.livedoor.blog/archives/cat_41063.html?p=2 
(33)源頼朝 ⑥安房から鎌倉へ       http://taptior.livedoor.blog/archives/cat_41063.html?p=2 
(34)富士川の戦い ①平家軍の敗走  http://taptior.livedoor.blog/archives/cat_41063.html?p=2 
(35)富士川の戦い ②実態は平家vs甲斐源氏
               
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53792706.html 
(36)還都と平家の反撃    
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53800017.html 
(37)高倉天皇            
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53802959.html 
(38)巨星墜つ            
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53826796.html
 
 
【 系図 】
                          
鳥羽天皇と待賢門院・美福門院   
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/52986162.html 
鳥羽・近衛・後白河・二条     
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53141926.html 
八条院・以仁王 関係系図       
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53691782.html 
摂関家系図① 忠実-忠通・頼長 
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53011242.html 
摂関家系図②          
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53352645.html 
善勝寺流藤原氏と藤原頼長の男色関係  
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53077472.html 
平氏系図                       
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53011242.html 
宗子(池禅尼)関係図       
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53107080.html 
清盛と後白河                
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53175169.html 
重盛と成親・西光の関係         
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53608983.html
源氏系図(摂津・河内・甲斐源氏)http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53790600.html 
源氏系図(義朝 関係)        
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53011242.html 
源頼朝 関係系図               
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53788438.html 
父太郎・母太郎 (奥州藤原氏、清盛と頼盛)
http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53418037.html
伊東祐親             http://blogs.yahoo.co.jp/taptior/53516035.html 
                 
( あとがき )
『平清盛』シリーズは以上で完結いたしました。
閲覧者の皆さま、長い間ご愛読いただきまして有り難うございました。
『愚管抄』『百錬抄』『玉葉』『山槐記』『吉記』『兵範記』
『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』『曽我物語』『吾妻鏡』
などの原文をネット上に upload された諸機関ならびに諸賢に敬意を表し、
また、画像を転載使用させていただいた著者の皆さまに深謝申し上げます。
                                                                                        taptior
 
P.S. このブログは当分お休みさせていただきます。
   雑事がいっぱい溜まってしまい、処理が大変です。

 
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                           清盛が愛した風景(神戸市垂水区大歳山遺跡から)
 
         平清盛 : (38)巨星墜つ
               
治承五年(1181)1月14日高倉上皇が崩御した。
これによって、1月17日後白河法皇の院政が正式に復活する。
2月2日には後白河院は六波羅池殿から、最勝光院南御所に移った。
 
後白河院政といっても、実権はまだ清盛が握っており、高倉上皇の遺勅として、
畿内惣官職を設置し、平宗盛を宛てる宣旨が1月19日に発せられた。
清盛が畿内近国を軍事的に直轄支配することを目的に設置したものであった。
 
2月17日清盛は、貴族の反対を押し切り、安徳天皇を新造の頼盛の八条殿(八条室町)に移した。(清盛の死後、4月10日安徳は閑院に移された)
 
2月22日清盛は「頭風」(強い頭痛)を発病。
2月24日より高熱。
清盛が療養していたのは、八条河原の平盛国の邸である。
閏2月4日清盛は危篤状態になり、徳子・時子・宗盛らが詰めかけた。
 
『平家物語』では、清盛の病気は熱病であり、あまりの高熱で躯を水で冷やしても焼石に水を掛けたように水が飛散してしまうなどと表現している。
同じ頃、盟友の藤原邦綱も病床にあり、同じ病気かも知れない(邦綱は閏2月23日死没)。
 
『玉葉』閏2月5日条
禅門薨逝、一定也云々、(中略)昨日朝、禅門以円実法眼、奏法皇云、愚僧早世之後、万事仰付宗盛了、毎事仰合、可被計行也云々者、勅答不詳、爰禅門有含怨之色、召行隆仰云、天下事、偏前幕下之最也、不可有異論云々
(大意)清盛死没は確実。昨4日朝、清盛は側近の僧・円実を後白河院へ使いにやり、
「私の死後は万事を宗盛に任せてあるので、何事も宗盛と協議して政務を行ってください」
と申し入れたが、後白河にはっきりした返事がない。そこで、清盛が後白河院を怨むような態度を示した。これを聞いた後白河院は行隆を召して「天下のことを宗盛が取り仕切るのに異論はない」と言い直させた。
 
後白河にしては、清盛が死んでも周囲はまだ平家の勢力であるから、心にもないリップサービスをしたのであろう。立場は異なるが、太閤秀吉が臨終時の徳川家康を連想する。
 
『平家物語』巻第六「入道死去」によれば、2日前時子に遺言している。
ただし最後に安からず思ひおくことあり。流人頼朝が首を見ざりつる事こそ口惜しけれ。死出の山を安く越ゆべしとも覚えず。入道死してのち、報恩追善の営み夢々あるべからず。あひかまへて頼朝が首を切て、我が墓の上にかけよ。それをぞ草の影にても、喜ばしくは思わむずる。子息、侍は深くこの旨を存じて、頼朝追討の志を先とすべし。仏教供養の沙汰に及ぶべからず」とぞ遺言したまひける。
(大意)葬式や供養は不要である。頼朝の首を我が墓前に供えることが私にとって最大の喜びであるぞ。一族郎党はこれを肝に銘ずべし。
 
治承五年(1181)閏2月4日、清盛は壮大な夢の完成を目前にして、失意のうちに病死してしまった(63歳)。
多くの世人は南都を焼いた仏罰と思った。(『百錬抄』)
 
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                         高橋昌明『平清盛 福原の夢』挿図を改変
 
閏2月6日西八条亭が炎上、『平家物語』は放火であるとする。
清盛の遺体は六波羅館のすぐ北にある愛宕寺(六道珍皇寺)で火葬、遺骨は側近の円実法師が福原に運んだ。
閏2月8日清盛の葬送が行われた。(『百錬抄』)

『平家物語』巻第六「築嶋」
(葬送の夜)六波羅の南に當て、人ならば二三十人が聲して、「嬉や水鳴は瀧の水」と云ふ拍子を出して、舞躍り、どと笑ふ聲しけり。
(訳)六波羅の南、法住寺殿の最勝光院あたりから数十人の声が聞こえ、「嬉しや水、鳴るは滝の水・・・」と拍子をとって舞い踊り、どっと笑う声がした。
 
この歌は延年舞の歌詞「嬉しや水、鳴るは滝の水、日は照るとも、絶えずとうたり」の一句。もと「足柄」と称する平安末期の民謡という。水の豊かな滝つ瀬のとうとうと鳴る音を祝う気持から、祝いや喜びの心を表すときなどに歌う。
後白河院は2月2日に最勝光院に移っているので、今様乱舞の中にいたと思われる。
後白河法皇にしても、やっと解放された思いがあったのだろう。
 
『百錬抄』の著者も「今様」「最勝光院」をキーワードにして暗に後白河院の存在を書き残したと考えられる。
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                                         百錬抄
 
清盛の死後、平宗盛は後白河法皇に対して低姿勢でのぞんだ。
『玉葉』閏2月6日条、宗盛の言として
故入道所業等、雖有不叶愚意之事等、不能諫争、只守彼命、所罷過也、於今者、万事偏以院宣之趣可存行候
(故清盛の行いについて、私の思い通りでないことがあっても諫言できず、ただ父の命に従ってやってきました。これからは、万事をひたすら院宣の趣旨に従います)
                       
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清盛の遺骨の納骨場所について、4つの説がある。
①「経の島」(大輪田泊の築島)説----『平家物語』
②「清盛塚」(兵庫区切戸町)説------伝承---発掘調査で墳墓でないと判明
③「能福寺」(清盛塚付近)説-------寺伝---寺伝内容に問題あり
④「山田法華堂」(垂水区西舞子町)説--『吾妻鏡』下掲
結局①か④だが、高橋昌明氏は④の「山田法華堂」説をとる。
 
『吾妻鏡』治承五年閏二月大四日条
戌尅。入道平相國薨。〔九條河原口盛國家。〕自去月廿五日病惱 遺言云。三ケ日以後可有葬之儀。於遺骨者納播磨國山田法花堂。毎七日可修如形佛事。毎日不可修之。亦於京都不可成追善。子孫偏可營東國歸往之計者。
(大意)夜十時に清盛が死没した。先月25日から患っていた。遺言には葬式は3日以後にし、遺骨は播磨国の山田法華堂に納めよ。法事は毎日せず、7日毎にせよ。京都で法事をしてはいけない。わが子孫は東国征伐に努力せよ。
(盛国の家を九条河原口とするのは誤りで、八条河原が正しい)
 
----- 一口メモ -----

【 山田法華堂 】
『平家物語』に「花見の春の園の御所、初音尋る山田の御所、月見の秋の岡の御所、雪の朝の萱の御所」とあるように、清盛は福原とその近辺に多くの別荘をもっていた。
山田別荘の地はもと播磨国明石郡山田村で、現在神戸市垂水区西舞子町である。
山田川の河口付近であり、当時港があり高倉上皇は厳島詣の帰路ここで下船した。
海岸からすぐ北に低い丘陵があり、その南斜面に山田別荘があったと思われる。
 
治承四年(1180)3月、高倉上皇は厳島詣の途中に山田別荘で昼食をとった。
源通親は『高倉院厳島御幸記』にこの時の別荘の様子を記している。
播磨国山田といふところに昼の御設(まう)けあり。心ことにつくりたり。庭には黒き白き石にて、霰(あられ)の方に石畳にし、松を葺き、さまざまの飾りどもをぞしわたしたる。     (*織物の霰地のように黒白の石を敷き詰めた)
上述の『平家物語』の記述をそのまま信用すれば、夏向きの松風さわやかな邸宅のようだ。
法華堂はこの別荘の片隅にあったと考えられる。

背後の丘陵には「きつね塚古墳」や「大歳山遺跡」があり、後者は小さいながらも前方後円墳で、明石海峡や淡路島から見て目立つように造られている。
柿本人麻呂「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」の景観もこのあたりとされる。
 
【 宗盛の話 】
宗盛は『平家物語』の影響で、一般に愚鈍で傲慢な性格と捉えられている。
 
壇ノ浦で平家一門が次々入水自殺するのに、宗盛・清宗父子は捕虜となった。
『愚管抄』 宗盛ハ水練ヲスル者ニテ。ウキアガリウキアガリシテ。イカント思フ心ツキニケリ。サテ生ドリニセラレヌ。
(入水したが泳げるので、浮いているうちに生きたいと思い、捕虜になった)
『平家物語』巻第十一「能登殿の最後」
大臣殿(宗盛)父子は海に入んずる氣色もおはせず、舟端に立出でて四方見回し、あきれたる樣にておはしけるを、侍共あまりの心憂さに、そばを通る樣にて、大臣殿を海へつき入奉る。右衞門督(子の清宗)是を見てやがて飛入給けり。皆人は、重き鎧の上に重き物を負うたり抱いたりして入ればこそ沈め。此人親子はさもし給はぬ上憖に究竟の水練にておはしければ、沈みもやり給はず。大臣殿は、「右衞門督沈まば我も沈まむ、助かり給はゞ我も助らむ」と思ひ給ふ。右衞門督も「父 沈み給はゞ吾も 沈まむ、助かり給はば我も助からむ」と思ひて、互に目を見かはし游ぎありき給ふ程に、伊勢三郎義盛、小船をつと漕寄せ、先づ右衞門督を、熊手に懸て引上げ奉る。大臣殿、是を見ていよいよ沈みもやり給はねば同う取奉てけり。
(宗盛親子は入水する様子もなく、船端に呆然と立っていた。部下は憎らしく思い、そばを通る振りをして宗盛を海へ突き飛ばした。清宗はそれを見て入水した。皆は重い物を身につけて入水したので沈んだが、宗盛父子は沈まない。おまけに水泳が達者だったので泳ぎ回っていた。(中略)熊手に引っかけられ父子とも捕虜になった)

この後、都で市中を引き回され、義経に護送されて頼朝の面前に引き出される。
このとき宗盛は卑屈な態度で命乞いをして嘲笑を買ったと。結局、両人は斬首された。
-----
『源平盛衰記』に奇怪な話がある。
宗盛が京で引き回されるとき、見物していた乞食僧の話。
「宗盛は妹の建礼門院と通じ、生まれた不義の子を高倉院の子として王位につけた(安徳)」
 
それなら近親相姦になるのだが、『源平盛衰記』は更に入水直前の時子に話させている。
「宗盛は清盛殿の子でもないし、私の子でもない。だから無様なのだ。
懐妊したとき清盛殿が男子を欲しがったのに、生まれたのは女の子だった。
夫に内緒で他所を探したら、清水寺の北坂で唐笠を売る僧に男の子が産まれていた。早速取り替えたのが宗盛だ」
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一ノ谷の大敗は後白河の謀略のためかもしれない話
『吾妻鏡』壽永3年(1184)2月20日条
壽永三年二月大廿日己卯。去十五日。本三位中將〔重衡〕遣前左衛門尉重國於四國。告 勅定旨於前内府〔宗盛〕。是舊主并三種寳物可奉皈洛之趣也。件返状今日到來于京都。備 叡覧云々。其状云。(中略)
去六日修理權大夫送書状云。依可有和平之儀。來八日出京。爲御使可下向。奉勅答不歸參之以前。不可有狼藉之由。被仰關東武士等畢。又以此旨。早可令仰含官軍等者。相守此仰。官軍等本自無合戰志之上。不及存知。相待院使下向之處。同七日。關東武士等襲來于 叡船之汀。依 院宣有限。官軍等不能進出。各雖引退。彼武士等乘勝襲懸。忽以合戰。多令誅戮上下官軍畢。此條何樣候事哉。子細尤不審。若相待 院宣。可有左右之由。不被仰彼武士等歟。將又雖被下 院宣。武士不承引歟。若爲緩官軍之心。忽以被廻奇謀歟。倩思次第。迷惑恐歎。未散朦霧候也。爲自今以後。爲向後將來。尤可承存子細候也。(後略)
(大意)南都焼討の平重衡は一ノ谷の戦い(2月7日)で捕虜になっていた。
後白河は福原から屋島に逃げていた宗盛に使者を出し、重衡と三種の神器を交換する交渉をした。宗盛の返書が今日、京都に着いた。法皇はご覧になったが、その内容はこうだ。
(中略、以下宗盛の返書の一部)
「去る六日、(2月6日福原で)院からの書状を受取りました。それには、「和平協議の使者を来る八日京都から出す。それに対する平家の返事を院が受け取るまで、停戦するよう源氏に命じてある。平家もこれを守れ」とありました。そこで使者をお待ちしていたところに源氏が(福原に)攻めてきました。
院宣を守っているので、平家は前に攻め込むわけにいかず、後退したところを源氏は調子づいて攻め込み平家の多くが殺傷されました。一体これはどういう事でしようか。
院が一時停戦の件を源氏に伝えていなかったのか、源氏が院宣を無視したのか、あるいは
後白河院が我らを騙し、油断させておいて源氏に攻めさせたのか。
院からきっちり子細をお聞きしたい(後略)」
 
『吾妻鏡』がこの記事を掲載するのは、義経の功績を貶める目的なのか、後白河の権謀を
伝える目的なのか、その真意を考えるのは面白い。

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                                                                  小督図(清原雪信 筆)
 
         平清盛 : (37)高倉天皇
 
応保元年(1161)後白河院が34歳のとき、寵愛を一身に集めた建春門院・滋子19歳の間に産まれた後白河の第7皇子である。名を憲仁(のりひと)という。(1161-1181年)
出生の地は、清盛が死没した八条河原口の盛国宅である。
当時は後白河院と実子の二条天皇の間に激しい確執があった時期であり、二条天皇は憲仁の誕生に神経を尖らせた。
 
その二条天皇が1165年に早世したため、後白河院は再び治天の君となり、仁安元年(1166)院が最も愛した滋子の子・憲仁を皇太子にすることができた。
仁安三年(1168)後ろ盾の清盛が罹病したことで、後白河院は憲仁皇太子の即位を急ぎ、二条の子、六条天皇を退位させることによって高倉天皇(7歳)が誕生する。
 
承安元年(1171)高倉が10歳になると、清盛は高倉の6歳上になる自分の娘・徳子を入内させ、念願していた天皇家の外戚になった。
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やがて高倉も青年になり、清盛や滋子ら周囲は徳子の懐妊を熱望していた。
 安元二年(1176)7月、高倉を慈しんだ母の建春門院滋子が34歳の若さで死没した。
高倉はその半月前病床の母を見舞うことを切望したが、高倉自身が母と同じ二禁に罹患していたので許されなかった。母と死別したとき、高倉はまだ15歳であった。
 
 
 
 
                NHK『平清盛』高倉天皇(千葉雄大)
 
 
ところがその同じ年、高倉の乳母が女子(功子内親王)を産んだ。
当時、乳母の最大の仕事は養君(養姫)の性教育であり、乳母自らが性教育の一環として相手を務めることも数多く、養君と乳母との間に子供が生まれた例も珍しくないらしい。 
功子内親王は翌年(1177)斎宮になることが決まり、野宮へ遷っていたが、その生母が実家で別の男性の子を妊娠中に流産して死亡、そのため功子は伊勢に下向することなく斎宮を退下した。
 
『平家物語』巻第六「葵の前」
高倉の中宮、建礼門院徳子に仕えていた女房の使用人に葵前という少女がいた。
高倉がその葵前を見そめて寵愛した。
そのことが評判になっていることを聞いた高倉は少女を召さなくなり、ふさぎこんで寝所に引きこもった。
関白の基房が見舞って、「なにも気兼ねはいりません。葵の前を召しなさい。女の身分が低いのを気になさるなら、私の猶子にしましょう」と慰めた。
しかし高倉は「後世に非難を受けるから」と、葵の前を再び召すことはなかった。
葵の前は落胆して実家に戻り、寝込んだまま数日後に亡くなった。
 
次の愛人は小督(こごう、1157-?)という。
藤原(冷泉)隆房の愛人であったのを、高倉が見そめて寵姫とした。
それを知った清盛は怒り、小督が女子(範子内親王1177-1210)を出産した後、出家させて追い出した。娘の徳子が未だに懐妊せず、やきもきしていた清盛だから当然だろう。
安徳誕生は翌治承二年(1178)である。なお、冷泉隆房の正室も清盛の娘(名は不詳)。
範子内親王は平家滅亡後、環境が好転し1198年には土御門天皇の准母にされ、(尊称)皇后になった。
 
『平家物語』巻第六「小督」
高倉は(葵の前のことを)恋慕の思いで沈んでいた。中宮の徳子はお慰めしようと、自分に仕えている小督という女房を差し上げた。
 
この小督は冷泉隆房の愛人だったが、高倉天皇に召された上は別れるしかなかった。
それでも隆房は諦めきれず、一目でも逢いたいと彼女の居る局あたりをうろつき、果ては恋歌を御簾の中に投げ込んだ。しかし小督は高倉に遠慮して、そのまま投げ帰させた。
 
清盛に小督の話が伝わり、清盛は激怒した。高倉と隆房はどちらも清盛の娘婿である。
その二人を虜にする小督は生かしておけぬとまで言った。
小督はそれを漏れ聞いて、密かに内裏を出て身を隠した。
 
小督が恋しくて悩んだ高倉は夜半に宿直の源仲国を呼び出し、小督を探してくれと命じた。
手がかりは、嵯峨野で片扉の家に住んでいるという情報だけであった。
仲国は考えた。小督は琴の名手である。今夜のような月夜にはきっと天皇を偲びながら
琴を弾いているだろう。その琴の音を頼りに探してみようと馬に乗って嵯峨野に向かった。
 
亀山の傍近く、松の一むら有る方に、幽に琴ぞ聞えける。峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覚束なくは思へども、駒を早めて行く程に、片折戸したる内に、琴をぞ彈澄されたる。控へて是を聞ければ、少しも紛べうもなき小督殿の爪音也。楽は何ぞと聞ければ、夫を想て恋ふると詠む想夫恋と云ふ楽なり。
(亀山のあたり 近く、松のひとむら有るかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。
 峰の嵐か松風か、たずぬる人の琴のねか、おぼつかなくは思えども、
 駒を早めて行くほどに、かたおりど したるうちに、琴をぞ弾きすまされたる。
 ひかえてこれを聞きければ、少しもまがうびょうもなき、小督殿のつまおとなり。
 がくはなんぞと聞きければ、おっとを思うて恋うと読む、そうぶれんという楽なりけり)
この名調子は是非音読していただきたい。    
                                                    片折戸:片側だけが開くようにした、一枚作りの折り戸
黒田節の一節に、このフレイズが詠み込まれている。
     峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、駒をひかえて聞く程に、爪音しるき想夫恋
 
月夜に弾く琴の音を頼りに仲国はようやく小督を見つけ出し、高倉の手紙を見せた。
躊躇して辞退する小督をなだめすかして、翌夜御所に運び閑所に隠し住まわせた。
高倉が毎夜通ううちに姫君が誕生した。
やがて清盛の知るところとになり、小督は尼にされ追放された。
 
翌治承二年(1178)、ようやく中宮・徳子の間に待望の安徳天皇が誕生する。
 
高倉天皇は公に知られているだけで、1176-1180年の4年間に3男4女計7人の皇子女を儲けている。特に治承三年には立て続けに3人が生まれている。
そこで、治承三年(1179)前半までは健康であった可能性が高い。
 
高倉天皇は仁安三年(1168)7歳で即位し、治承四年(1180)19歳で言仁に譲位したが、その12年間、政治的実権はなく、まったく後白河と清盛の傀儡でしかなかった。
それで趣味の笛に凝るか、漢詩文に勤しむか、女性と戯れるしか、することがなかったのだろう。色白で美男子とされるが、母・滋子の血統か。
『玉葉』主上近日御笛之外、他に事無し
『愚管抄』宸筆ノ御願文アソバシテ。御仏事有ケリ。漢才勝レ御学文アリテ詩作リ雑筆ナド好ミテ。女房ノ申文ナド云テアソバシタルモノ多カリケリ
                                                      (お付きの女官たちの代筆までした)
一方では、安元の政変・治承三年の政変と後白河法皇と清盛の確執に悩むことが多かったと思われる。
 
治承三年(1179)秋頃から高倉に体調不安が生じていたらしい。丁度クーデター頃である。
清盛はそのために、言仁の即位準備を急いだように思われる。
治承四年(1180)2月に上皇になった高倉は3月厳島詣をした。
源通親の『高倉院厳島御幸記』には道中に体調不良の記載はない。
遷都後の記事には体調不良が記されるようになり、『玉葉』は還都の理由の一つに高倉の病状が重いことを挙げている。
 
『玉葉』11月23日条に「新院御悩危急と」とあり、高倉の病状は次第に悪化した。
治承四年12月には回復が絶望とみられるようになる。
清盛は、高倉死後の対策を講じなくてはならなくなった。
12月16日備前に配流していた前関白基房を京に戻した。
12月18日清盛は後白河に院政復活を提案し、後白河は再三辞退の上承諾した。
12月20・21日の除目には重態の高倉は関与できなかったが、後白河も清盛も介入せず、摂政の基通が一切を取り仕切った。
 
治承五年(1181)1月12日高倉上皇は危篤になった。
翌13日兼実(『玉葉』の著者)が高倉を見舞いに池殿に駆けつけたとき、兼実は後白河の近臣から驚くべき話を聞く。
それは、高倉が崩御したら中宮の徳子を後白河法皇の後宮に差し出すというのである。
高倉が死没すれば、後白河に院政を返すしかない。これまで後白河と対立していた平家としては、何らかの融和策を講じておきたい考えからである。
高橋昌明氏はこのようなきわどい策を案出し、清盛に進言する人物は時忠をおいてあるまいとする。

しかし、さすがに法皇も辞退し、また徳子が頑強に拒絶して出家するとまで言ったので取り止めとなった。
その代わりに、清盛が厳島内侍に生ませた御子姫君(1164?-1181?)を入れた。
美貌の女性であったようだが、後白河は相手にせず、御子姫君付きの女房(藤原伊実の娘)に手をつけている。
 
治承五年(1181)1月14日、高倉上皇は六波羅池殿で崩御。御年20歳。
その夜、遺詔によって清閑寺法華堂に奉葬された。
現在、京都市東山にある後清閑寺陵には小督局の墓と伝える宝篋印塔がある
 
----- 一口メモ -----
 
【 小督と健寿御前 】
 
藤原定家健寿御前(1157-?)という姉がいた。藤原俊成の娘である。
実名は健御前(『明月記』)。NHK『平清盛』では東風万智子が扮している。
11歳で建春門院・滋子に女房として出仕したので、女房名を建春門院中納言、
滋子が死去してからは八条院に仕えたので、八条院中納言という。
『たまきはる』という回想録を遺し、女房時代の御所の様子が知られるので貴重である。
    (健寿御前が建春門院、八条院について記したことは、(15)(27)章を参照)
 
その健寿が小督のことを書き遺している。
承安四年(1174)高倉天皇は御方違えのため、母の滋子が住む法住寺殿へ行幸したことがあった。そのとき、健寿御前は高倉のお供をしてきた小督に注目した。
同じ年齢(17歳)だから余計気になったのだろう。
                      (方違え:A地からB地に行くとき、その方角が凶なら、C地を経由してBへ行く)
そして、二十数年後ばったり出会ったことを書いている。
 
山吹のにほひ、青き単衣、えび染の唐衣、白腰の裳着たる若人の、額のかかり、姿よそひなど、人よりは殊に花々しと見えしを、いまだ見じとて、人に問ひしかば、小督の殿とぞ聞きし。此の度より物言ひそめて、局の其方ざまなれば、下るとても具してなどありしが、其の後行方も知らで、二十余年の後、嵯峨にて行き遇ひたりしこそ、あはれなりしか
(大意)目立って美しい人だった。初めて見たので、誰?と人に聞くと小督という。
それからは、彼女と話すようになり、彼女の部屋が自分と同じ方向にあったので連れ立って帰るなど親しかった。
その後どうしているか知らなかったが、二十数年後、嵯峨野でばったり出会い感無量であった。
 
健寿御前の弟、藤原定家は元久二年(1205)重態の小督(高倉院督殿、48歳)を見舞っている。
『明月記』元久二年(1205)閏7月21日条
昏黒、高倉院督殿宿所に行き向ふ。[皇后宮御母儀、]日頃病悩、時を待たるるの由聞く。年来この辺において聞き馴るるの人なり、仍りて訪ふ。女房に出あひ、即ち宿所に帰る。

「近頃この辺りで小督の噂をよく聞いている」とすれば、定家はこの時期小倉山荘に住んでいたのだろうか。

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                                東大寺大仏殿と大仏   http://k-kabegami.sakura.ne.jp/daibutu/4.html 
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         平清盛 : (36)還都と平家の反撃
 
【 還都 】
 
治承四年(1180)に各地で起こった内乱は予想以上に拡大していった。
事態の深刻化にともない、清盛の周辺で福原から京都への都帰りが真剣に論じられる。
干ばつや疫病、源氏の挙兵、富士川の敗北と凶事が続いたが、それらが遷都の報い(祟り)と思うものが平氏の内部にも多くなってきた。
11月5日いつも父に従順であった宗盛が清盛に還都を進言し、大喧嘩になった。
平氏の当主として、皆の意見を代弁したのであろうが、宗盛が正面切って清盛に反対したのは初めてのことだっただろう。
清盛が富士川敗戦の報告を受けた同じ日である。   
病身であった高倉上皇も再三帰都を訴え、清盛は孤立していた。
 
11月11日安徳天皇は清盛が建設した新内裏に行幸し、そこを舞台に五節舞を挙行した。五節舞は新嘗祭で行われるものであり、これが還都の花道となった。
11月12日叛乱鎮圧と新都造営の並立を困難とみた清盛は、ついに還都に同意した。
11月22日夜、福原の邸宅が放火された。規模は不明。犯人は摂津源氏の手嶋蔵人で放火後逃亡した。
11月23日都帰りが開始された。随兵は僅か二千騎であった。
大風のため予定より遅れて26日帰洛した。
安徳天皇は五条東洞院亭、高倉上皇は六波羅池殿、後白河法皇は泉殿に入る。
(12月8日、後白河法皇は池殿に移され、上皇・法皇は同居になる)
 
11月29日清盛もついに都に帰還した。
このとき清盛は、自身も含めて一門の福原残留を禁じ、平安京への転居を命じた。
叛乱鎮圧のため、京都にあって総力戦を直接指揮するためであった。
     
清盛は平氏系新王朝とこれにふさわしい新宮都の建設に猛進したのだが、
清盛の描いた福原の夢は約170日で雄図空しく挫折したのである。
 
【 近江攻防 】
 
 その頃、反平氏・反政府の動きは東国ばかりではない。
紀伊国では熊野別当湛増が挙兵。筑紫国でも菊池隆直の叛乱が起こった。
それだけでなく、お膝元の京都に近い畿内・近国でも顕著になってきた。
東国への追討軍が富士川で敗走して帰ってきたことが知れ渡り、叛乱を助長させた。
11月17日には尾張・美濃の源氏が蜂起する。
( 治承4年(1180年)から平家滅亡の元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱を総称して治承・寿永の乱という)
 
近江国では、在地武士で近江源氏の一族である山本(源)義経・柏木義兼の兄弟が園城寺・延暦寺の衆徒と連携しながら近江国一帯で叛乱を組織していた。(二人義経)
彼らはまだ頼朝勢力とは無関係である。
『玉葉』11月23日条には「 また聞く、近江の国併せて一統しをはんぬ。水海東西の船等、悉く東岸に付く。また雑船筏等を以て、勢多に浮橋を渡しをはんぬ。凡そ北陸道の運上物、悉く以て点取しをはんぬ。大津の辺の人家騒逃す」とある。
(彼らは近江国を制圧した。琵琶湖のすべての船を東岸に集めたり、瀬田に小舟や筏で浮橋を渡したりして東国の軍勢が都に攻め入る準備をした。また北陸道からの年貢物を奪取した。大津近辺の人々は避難した)
 
近江国は東国への関門であり、大津は年貢官物など物資の集散地であったから、ここを抑えられることは京都にとって死活問題であった。
 
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                            高橋昌明『平清盛 福原の夢』挿図を転載
 
還都した平家は治承四年(1180)12月初めから反撃を始めた。
12月1日先遣隊として平氏の有力な家人で伊賀の住人の平田家継(平家貞の子)は近江源氏に合流していた手嶋蔵人らを討伐し、また甲賀の柏木義兼の砦を攻め落とした。
12月2日大規模な諸源氏追討軍を編成した平家は、これを三手に分けて進発した。
近江道からは知盛、伊賀道からは資盛・平貞能、伊勢道からは家人の伊勢守藤原清綱が向かった。
琵琶湖の東と南に展開する敵を三方向から挟撃する作戦であった。

平家軍はかなり優勢に攻撃し、11日には園城寺を焼き討ちしたりした。
しかし主将の山本義経は本拠の山本城(滋賀県神崎郡五個荘町)に籠もって抵抗を続ける。そこで、23日維盛を副将軍として投入し、平家は年内に近江をほぼ制圧した。
(山本義経は山本城が落城したとき逃れ、後1183年に木曽義仲の上洛軍に加わっている)
 
【 南都焼討 】
治承四年12月平氏軍が近江方面で苦戦しているとき、大和国興福寺の形勢も不穏を極めていた。
前年、治承三年のクーデターで清盛は関白基房を罷免して左遷している。
藤原氏の氏寺であり摂関家と緊密な興福寺としては清盛に敵意を持つのは当然である。
また、もし以仁王が南都に逃げこんでいれば、平家と合戦になることは必然であった。
 
清盛は畿内の反平氏勢力一掃の一環として、南都勢力の制圧を決行する。
 
『平家物語』巻第五「奈良炎上」では、
まず、瀬尾兼康を検非違使に任命し、五百余騎で奈良に向かわせた。
この際、「武装せずに衆徒と会い、説得せよ。衆徒が乱暴しても、こちらは暴力を振るうな」と命じた。
しかし、それを知らない大衆は瀬尾勢の六十人をからめ取り、六十人の首を猿沢の池畔に並べ曝した。(瀬尾兼康は無事)
『平家物語』は南都焼討の直接原因として書いたようだが、真相は明らかでない。
 
治承四年12月25日(1181 )重衡は父・清盛の命を受けて数千騎の軍勢を率い奈良に向かった。
12月28日重衡の本隊は奈良坂・般若寺坂で大衆の抵抗を破り、南都に侵入した。
このときの攻撃で、東大寺興福寺の堂舎が焼失し、堂内に逃げこんでいた多くの人々が焼死した。
大仏は頭が落ち、身体はどろどろに溶けて山のようになったという。
その他南部の堂宇房舎はことごとく焼け、春日神社だけが辛うじて災を免れた。
 
『平家物語』巻第五「奈良炎上」
夜軍に成て、暗は暗し、大將軍頭中將重衡、般若寺の門の前に打立て、「火を出せ」と宣ふ程こそ在けれ。平家の勢の中に播磨國の住人福井庄の下司、次郎太夫友方と云ふ者、楯を破り續松(たいまつ)にして、在家に火をぞ懸けたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風は烈しゝ、火本は一つなりけれども、吹迷ふ風に、多くの伽藍に吹かけたり。恥をも思ひ、名をも惜む程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて討れにけり。行歩に叶へる者は、吉野十津川の方へ落ゆく。歩も得ぬ老僧や、尋常なる修學者、兒ども、女童部は、大佛殿、山階寺の内へ我先にとぞ迯行ける。大佛殿の二階の上には、千餘人昇り上り、敵の續くを上せじと階(はしご)をば引てけり。猛火は正う押懸たり。喚叫ぶ聲、焦熱、大焦熱、無間阿鼻のほのほの底の罪人も、是には過じとぞ見えし。
 
『玉葉』12月22日条
伝聞、来二十五日、官軍を南都に遣わし、悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払い、一宗を摩滅すべしと。
 
『平家物語』では照明のために民家に放火したのが、強風で伽藍に延焼したとするが、
『玉葉』では房舎の焼き討ちは当初からの計画とする。これが真相であろう。
 
かって聖武天皇が「我寺興隆せば天下も興福し、吾寺衰微せば天下も衰微すべし」と詔し、国力を傾けて建立した東大寺をはじめとする南都の諸大寺は、平重衡の焼き討ちによって一塵の灰と帰した。

重衡は後に一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。
 
この南都焼き討ちの影響は大きかった。清盛は「仏敵」とみなされる。
寺院勢力を完全に敵に回した上、平安貴族をさらに平氏から離反させることになった。
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その後の話:
翌年の養和元年(1181)後白河院の命で視察に来た藤原行隆俊乗房重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん、1121-1206)が東大寺再建を進言し、東大寺勧進職についた。
鎌倉幕府、特に源頼朝の全面協力もあり、重源の超人的な貢献によって復興事業が進められる。

文治元年(1185)平氏が壇ノ浦で滅亡した年に後白河法皇を導師として「大仏開眼供養」が行なわれ、建久元年(1190)に大仏殿が完成し、落慶法要に頼朝が参列した。
 
戦国時代の永禄10年(1567)、重源が再建した大仏殿は松永久秀によって再び焼き払われた。
現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間に再建されたもので、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて規模が縮小されているのは残念である。

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                          富士川 : 国土交通省甲府河川国道事務所HPの挿図を改変    
   
         平清盛 : (35)富士川の戦い ②実態は平家vs甲斐源氏
 
問題は「富士川の合戦」の実態は、平家軍 vs 頼朝軍 であったのかである。
 
『平家物語』では、
頼朝軍が鎌倉から黄瀬川に到着すると、甲斐・信濃の源氏勢が馳せ来て合流し、浮島が原で勢揃いが行われ、20万騎になった。
10月24日富士川で矢合わせをすると決めたが、その前夜平家は水鳥の羽音で逃走した。
24日早朝、源氏20万騎は富士川に押し寄せ、勝ち鬨を三度あげた。
 
『吾妻鏡』でも、
10月18日条「頼朝軍は晩に黄瀬川に到着。そこへ以前からの計画通り、甲斐・信濃の源氏と北条時政が2万騎をひきつれて参着した」
10月20日条には「頼朝軍は駿河国賀島に到着。平家軍は富士川の西岸に陣を張る。
その夜、武田信義が作戦を立て、平家の背後を襲撃しょうとしたとき水鳥の羽音で・・・」と記す。
 
『平家物語』『吾妻鏡』とも、甲斐・信濃源氏が既に頼朝の配下であり、黄瀬川に参着したように記す。
そして富士川の戦いは平家軍 vs 頼朝軍 の構図である。
しかし、『平家物語』はあくまでも物語であるし、その成立も鎌倉時代である。
『吾妻鏡』は日記形式で書かれているが、実際は鎌倉時代後期の編纂とされる。
曲筆も多々認められ、極論すると、『吾妻鏡』は北条氏(株)の「社史」と思えばよい。
 
富士川の戦いの同時代に書かれた『玉葉』を読む限り、頼朝がこの戦いに直接関与した形跡がない。
(前章を参照)
当時甲斐源氏は頼朝と主従関係はなく、独自に行動していたと考えられているし、
「鉢田の戦い」「富士川の戦い」全体の流れをみると、甲斐源氏が主体である。
そこで、「富士川の戦い」は平家軍 vs 甲斐源氏軍 であり、頼朝軍は後方にあって副次的な役割しか果たしていないと考える歴史学者が多くなっている。
はっきり言えば、頼朝軍が参戦する前に甲斐源氏が単独で大勝したということである。
 
『吾妻鏡』10月21日条に
以安田三郎義定爲守護。遠江國被差遣。以武田太郎信義。所被置駿河國也。
(頼朝は安田義定を遠江国の守護、武田信義を駿河国の守護に任じた)
と、いかにも頼朝が配下の武田・安田に論功行賞として与えたように書くが、実際は甲斐源氏が実力で手中にしたものであり、頼朝は関係がない。
 
10月18日条の
爰甲斐信濃源氏并北條殿相率二万騎。任兼日芳約。被參會于此所。武衛謁給。
(甲斐信濃源氏と時政が二万騎を引き連れ、約束通り(黄瀬川に)来た。頼朝は面会した)
も曲筆だろう。甲斐源氏が黄瀬川に来る理由はなく、直接富士川に出たと考える。
 
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              石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』挿図より
 
『吾妻鏡』における頼朝軍の移動にも疑問がある。
『玉葉』の日付と差異があることはさておき、『吾妻鏡』の日付によって移動を記すと、
18日晩に黄瀬川に到着。
20日賀島に到着。その夜、平家軍は撤退。
21日黄瀬川宿に戻る。その日、義経と対面し、夕方沐浴して三島神社にお礼参りした。
 
勝利後の撤収を20日の夜間に行う理由はないから、普通なら撤収は早くても21日早朝に平家敗走を確認してからだろう。
賀島から黄瀬川まで直線距離で20km、しかも浮島原を通るとすれば、移動にかなりの時間を要すると思われる。
後世の東海道五十三次では、
  三島宿-15km-沼津宿-6km-原宿(浮島原)-6km-吉原宿(賀島)で、
中世の黄瀬川宿は三島宿と沼津宿の中間にあった。
それを敗走でもないのに、その日のうちに賀島から黄瀬川に帰り、対面し、夕方は三島と忙しい。
往路と復路のスピードが違うのも、疑問である。
      
実際には、頼朝軍は黄瀬川付近までしか進んできていなかったと、私は推測している。
頼朝軍が黄瀬川まで進出してきた頃に、平家の敗走を知ったとすると話の辻褄が合う。
一歩譲って富士川まで前進したとしても、そこに到着したときにはすべてが終わった後だっただろう。
深読みすると、『玉葉』と『吾妻鏡』の日付の違いは、平家が敗走する前に頼朝を賀島に到着していることにするため、『吾妻鏡』が日程を操作した結果と考える。
つまり逆のアリバイ工作である。(アリバイは犯行時に現場にいなかったことの証明)
 
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話を平家敗走後に戻す。
 
『吾妻鏡』10月21日条
頼朝は富士川から敗走する平氏(10月19日深夜)を一気に追撃しようとした。
千葉常胤、三浦義澄、上総廣常らは、まず地元固めが先決である、常陸国佐竹氏など関東の反対勢力を平定した後に関西へ進出すべしと頼朝を諫めた。
これに従い、頼朝は賀島から黄瀬川へ陣を撤収した。
 
当10月21日に、いわゆる「頼朝・義経 涙の対面」がある。
『源平盛衰記』巻第二十三には「浮島原にいた頼朝の下に、義経が二十余騎を引き連れてやってきて名乗った」とあり、
『吾妻鏡』10月21日条には「頼朝の黄瀬川の宿に、若者が独りやってきた」とある。
(但し、この条に奥州の藤原秀衡が義経に佐藤継信・忠信兄弟をつけたことも記す)
黄瀬川は狩野川水系の最大の支流であり、沼津市東方を流れる。(地図参照)
 
頼朝(33歳)と義経(21歳)は往時を語りあい、懐旧に涙した。
さらに頼朝は4代前の曽祖八幡太郎義家と弟の新羅三郎義光の故事と同じ状況であることに感動した。(巻頭の記事を参照)
黄瀬川大橋のすぐ東にある八幡神社の境内に「対面石」と呼ばれる大小2つの石がある。
 
この後頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の平定と経営に専念することになる。
 
----- 一口メモ -----
 
【 鉢田の戦い 】
鉢田の戦いに関する記述は『吾妻鏡』に依拠している。
この甲斐源氏軍には石橋山から脱出した加藤景廉(伊豆で山木兼隆を誅殺)ら頼朝勢も参加したとする。
更に、北条時政父子も甲斐勢に参加しているように記す。
加藤景廉の参加は話が合うが、前述のように9月8日使者として安房を出発し甲斐へ来たという北条時政の存在が問題である。
 
波志太山と鉢田山の所在は不明である。
波志太山は富士北麓の西湖と河口湖の間にある足和田山(富士河口湖町)との説もある
また発音が似ているので、波志太山=鉢田山の説がある。
また、愛鷹山は以前は足高山と表記されていて、鉢田山=愛鷹山の説がある。
私は、波志太山=鉢田山=愛鷹山と考えたい。
 
長田入道は、頼朝の父・義朝を尾張で謀殺した長田忠致とする説が多い。
『吾妻鏡』には「長田入道子息二人梟首。遠茂爲囚人」とある。
この解釈が問題で、①長田入道の息子が2人梟首(長田入道は不明)
                  ②長田入道 梟首 + 長田入道の息子2人 梟首
                  ③長田入道 梟首 + 橘遠茂の息子2人 梟首(これはないだろうが)
のいずれであるか、よくわからない。素直には①なのか。   
長田入道=長田忠致とすると、(身の終り、美濃尾張)と頼朝に殺される話が②③では成立しなくなる。
 
【 浮島原 】
現在の富士市と沼津市の間には第二次世界大戦前まで浮島沼(富士沼)が広がっていた。
戦後の干拓によって一部を残して消滅している。
その名残は浮島ケ原自然公園(JR東田子の浦駅の北)で見ることができる。
当時の浮島原は浮島沼と周辺の湿地帯を合わせたもので、一大沼沢地帯であった。
掲載した地図ではかなり東に記したが、当時浮島原や富士沼は賀島近くまで広がっていたのかもしれない。

【 富士川 】
富士川は富士市岩本と富士市木島の間に至って山間部から平地に顔を出す。
川が運ぶ大量の土砂により扇状地(富士平野(加島荘))が形成され、往時その中心が賀島であった。
日本三大暴れ川の一つで、以前は氾濫を繰り返す度に川筋も変化し、富士川の戦い当時は本流は現在よりもっと東を流れ、幾筋もの派川となって扇状地を流れていた。
 
阿仏尼が京から鎌倉に下る途中、富士川を渡る場面で、「明けはなれて後、富士河わたる。朝、川いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる」(『十六夜日記』1283年)とあり、15本もの派川を渡っている。

そこで、「富士川の西岸に布陣」といってもよくわからない。常識的には本流の西岸と思う。
現在は治水によって、富士川は1本になって駿河湾に注いでいる。
写真の雁堤(かりがねづつみ)は江戸時代、古郡氏三代に渡る偉業で建造されたもの。
今なお治水の要として機能している。堤防の形状が雁行に似るため、その名がついた。    

 
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       平家越の碑(富士山南麓住人さまブログ)      対面石(龍さんのプログより)
 
【 平家越の碑 】
富士市新橋町にあり、和田川に架かる橋(平家越え橋)の東詰に立つ。
往時、ここに「平家越え」という小字名があり、富士川の河川敷であったといわれている。
富士川の戦いで両軍が対峙したのがこの辺りであったという伝承に由来する。
武田軍が平家の背後を襲う(平家を越える?)ために渡河したので「平家越え」と名付けられたのか、よくわからない。
以前は年数を経た大木があり、吉原宿の目標になっていたが、大正9年に現在の石碑が建てられた。
賀島はこのあたり一帯の地名と思われる。
(吉原宿ができるということは街道筋であり、人家も増加する環境にあった)

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